『フルスタリョフ、車を!』『わが友イワン・ラプシン』

アレクセイ=ゲルマン監督作品『フルスタリョフ、車を!』『わが友イワン・ラプシン』を観た。
「神々のたそがれ」の公開を契機にアレクセイ=ゲルマンの作品が各所で上映された。アレクセイ=ゲルマンが監督したのは事実上「神々のたそがれ」を含め五作品となり、全てを観賞する事は可能なのだが、結局二作品を観るだけに留まった。

誰もいない雪が積もった路上。男は車が一台停まっているのを不審に思い見定めている。すると車から現れた秘密警察が男を納屋に閉じ込める。
禿頭の中年の男性は大家族に囲まれて暮らしている。食事を取りながら吊輪に捕まり、仕事場の病院では我が物顔で闊歩している。どうやらこの男はかなり高い地位にある医者らしい。しかし突然裏口から塀を飛び越えて出奔してしまう。どうやら身に危険を感じ取ったようなのだ。片田舎の駅を訪れるも電車は既に無い。不良達に囲まれ格闘するも秘密警察に見つかってしまう。身柄を拘束された医者は商業トラックを装った護送車に乗せられ、複数の男たちに尻を掘られ吐瀉する。護送車が停められ解放されると死を前に病床に臥したスターリンの元へ送られる。治せと言われるも最早為す術も無く、腸内から異臭を放ったスターリンはそのまま死ぬ。これを知った秘密警察長官ベリヤは「フルスタリョフ、車を!」と運転手の名を呼ぶのだった。
納屋に閉じ込められた男が収容所から出て来る。どうやら何年も閉じ込められていたらしい。男が何とか乗り込んだ電車には医者の姿があった。医者は頭にコップを乗せ、電車がカーブを曲がっても水を零さないでいられるか賭けに興じ始める。

ユダヤ人医師がソ連高官の暗殺を謀ったとする流言「医師団陰謀事件」とスターリンの死を基にした作品。題名はスターリンの死を知った側近ベリヤが勝利感を隠そうともせず放った言葉だという。最後に登場する医者はマフィアのボスになっており、これら一連の出来事が今日のロシアが抱える諸問題の根源である事を示唆しているという。こういった説明は映画には無く、せいぜい上記のような出来事を知るのが精一杯だった。

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  • 『わが友イワン・ラプシン』

1980年代、孫がいる年老いた語り手により、1930年代のある男の数年間が語られる。
無骨な刑事ラプシンは共同生活を送っており、舞台女優ナターシャに出会う。娼婦を演じるので役作りの為に話を聴きたいとナターシャが警察署を訪れればその場を設け優遇する。その後友人である記者ハーニンがやってくる。ラプシンはナターシャに愛を告白するも、ハーニンが好きなのだという。一方、ハーニンは妻を失い精神的に不安定なのか自殺を試みようとしたところをラプシンが喝破して止める。ラプシンは脱獄囚による殺人事件を追う中、とうとう犯人を追い詰める。しかし取材の為に同伴していたハーニンが刺されてしまう。友人の負傷に激情を露わにしたラプシンは犯人を容赦無く射殺してしまう。
記者ハーニンがモスクワに向かう為、ラプシンとナターシャが見送りにやってくる。ハーニンはラプシンにナターシャへの好意をなぜ伝えてくれなかったのかと言い、その場を去る。ハーニンが居なくなるとナターシャはハーニンに振られたと語る。ラプシンは憮然とそれを聞き何も言わない。ナターシャは「上手くいかないものね」と言いその場で別れてしまう。ラプシンは共同生活を送る仲間に「今度昇進試験を受けるのだ」と語る。

1930年代はスターリンによる恐怖政治が敷かれた時代だという。スターリンの側近No.2であるセルゲイ=キーロフの肖像が作品に何度か登場するらしいのだが、彼の暗殺を契機に粛清が本格化しており、登場人物たちが今後粛清に遭う事を示唆しているというのだから驚いてしまう。またノーベル文学賞を辞退したボリス=パステルナークの精神を体現した作品だと監督は語っている。個人的には夜半ナターシャに会いに窓から部屋に入る中年ラプシンの姿がどうにも滑稽で印象深かった。

わが友イワン・ラプシン アレクセイ・ゲルマン監督 [DVD]

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少女は自転車にのって

ハイファ=アル=マンスール監督作品『少女は自転車にのって』を観た。

十歳のワジダは男友達と自転車で競争しようとするものの、イスラム教の戒律を守る周囲の大人はそれを許さない。ある日、雑貨屋で見掛けた自転車に一目惚れしたワジダは、友人にミサンガを売り、上級生の密会の橋渡しして資金を集め始める。しかし自転車買うに微々たる稼ぎでしかなかった。そんな折、学校のコーラン暗唱大会の賞金に目をつけたワジダは、苦手としていたコーランの勉強を始める。
ワジダの母親は夫との関係の継続を望むが、男子を産めなかった為にその関係は希薄になりつつあった。また職場に行く為の運転手を探すも上手くいかない。近場の職場に勤めようと考えるが、ヒジャブも付けずに男性と共に働く友人の姿を見て、思わず批判してその場を去ってしまう。
学校では、上級生が教師に隠れてネイルや恋に夢中になっているものの、男女交際が発覚して全校生徒の前で名指しで咎められ生徒たちも軽蔑を隠さない。一方、女性校長の家に泥棒が入ったと事件が起きる。生徒たちはきっとそれは逢引きだったのだと噂する。
家やクラブでの勉強の成果の末、ワジダはコーランの暗唱大会で優勝する。賞金を何に使うのかと女性校長に問われたワジダは自転車を買うと正直に語るものの、叱責され賞金も没収されてしまう。ワジダは「校長の家に入った泥棒は恋人だったのでしょう。」と捨て台詞を残しその場を後にする。
ワジダは自転車を買う術を失い途方に暮れるが、母親は自転車をワジダに買い与える。母親は夫と離婚すると決めたと言い、彼女に幸せになって欲しいとも語る。
晴れ空のもと、ワジダは新しい自転車にまたがり、街を疾走して笑顔を見せるのだった。

サウジアラビアを舞台とした作品でありワジダが何気なく履いているコンバースやラジオで聴いているポップスも宗教的に咎められる事態を察すると戸惑いを隠せない。宗教的な抑圧と言えばそうなのだが。それを笠に着る男性中心主義的な雰囲気に嫌悪感を覚えるというのが正直なところだ。この抑圧はどこにでもあり、つまるところ自分たちが肯定出来るかというところにある。物語のなかで母親は戒律に縛られた自分の在り方から脱却しようとし、娘が一人の女性として幸せになる事を望む。コーランの暗唱に手こずるワジダに対し、母親は抑揚をつけて美しく暗唱してみせ、日々の女性たちの不自由な生活とあいまって、物事は単純では無いのだと気がつかせてくれる。宗教とは保守的であればこそ、それは確かにそうだろう。しかし物事は不変ではあり得ず、また普遍的なものでは無く、変化とは異なるものの介入でしか有り得ない。ワジダの行動に小気味良さを覚えるのは、その行動の意味を信じているからに他ならない。

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コングレス未来学会議

アリ=フォルマン監督作品『コングレス未来学会議』を観た。原作はスタニスワフ=レム著「泰平ヨンの未来学会議」

ハリウッドは人気絶頂期の俳優をスキャンしデジタルデータとして自由に作品をつくる事が可能となっていた。「キアヌ=リーブスもサインした。」と女優ロビン=ライトに声が掛かる。旬を過ぎた女優ロビン=ライトは仕事が激減、シングルマザーとして娘と難病の息子を抱えていた現実は変えようも無く、息子が検査により失聴等の可能性が高まっている事を知ると、高額の報酬と引き換えに全身スキャンと芸能活動の禁止を受け入れるのだった。
二十年後、ロビン=ライトのデジタルデータは頑なに拒否していたSF映画のアクションヒーローを演じ続けていた。ロビン=ライトは契約更新と未来学会議に出席する為ある街を訪れる。街に入るにはドラッグの服用が義務付けられていた。車を運転中、ドラッグの効果により全てがアニメーション化、ロビン=ライトはこの事態に驚き呆れながら現実と虚構を曖昧にしていく。契約更新でロビン=ライトに示されたのは、誰でもロビン=ライトになれるドラッグの開発が成功した事だった。未来学会議での新薬の発表に対し「目をさますべき。」とロビン=ライトはメッセージを送るも観客に声は届かない。そしてテロが勃発、ロビン=ライトのデジタルデータで作品を作り続けてきたというジョンと避難しようとするも、街に散布されたドラッグを吸引したロビン=ライトは意識を失ってしまうのだった。
更に二十年後、ロビン=ライトはコールドスリープから覚醒する。目覚めた世界はドラッグによりアニメーション化、全てドラッグで願いを叶えられる為、人類は自由と平和を手に入れていた。そんなユートピアでロビン=ライトとジョンは愛を交わし合う。しかし息子を忘れる事が出来ないロビン=ライトはジョンから得たドラッグ解放の薬でアニメ化した世界から現実の世界に戻る。装飾を剥ぎ落とされた世界では虚ろな人々が街を漂っていた。ロビン=ライトはジョンの主治医を尋ねるものの「息子はあなたを待っていたが既にドラッグの世界に行ってしまった。もう会う事は出来ないだろう。」と語る。ロビン=ライトは息子が居ない世界では生きていけないと、ドラッグを服用し息子のいる世界へ戻るのだった。

ロビン=ライトをロビン=ライトが演じており、ハリウッド映画事情に詳しい人が見れば、現実と虚構が重なる部分も多いのだろう。その辺りに疎い為、せいぜいSF映画に出たくないとSF映画で語るロビン=ライトや、どうみてもトム=クルーズらしき人がデジタルスキャンの契約更新に来ているところに笑う程度だった。
原作と本作を比較すれば、未来学会議でのテロ発生以降の筋書きは結末以外は変わりが無い。
原作の結末は、滅びを前にした人類に対し安楽死させるべくドラッグ化した世界が作られた事が明かされ、口論になった主人公と黒幕が窓から落下したところで、現実の世界で主人公が目を覚まして終わる。原作では現実の世界があり、現実の世界の主人公の夢の中で、現実の世界とドラッグ化した世界があった。
本作は主人公が現実の世界で観ている夢では無く、現実の世界とドラッグ化した世界しか無い。そして主人公は息子の居ない現実の世界に望みが無かった為に、ドラッグ化した世界で息子と共に生きる事を選択する。
原作では主人公が現実の世界とドラッグ化した世界を軸に物事を考えるのに対し、本作の主人公は息子のいる世界と居ない世界を軸にしている事が判る。
本作の結末を観た際、主人公の心理的な側面だけをクローズアップした作品だと思ったものの、以上で説明した作品の構造を考えると、主人公の最後の選択を含め曖昧にしたところが無い正直な作品だなと思う。
普通、腐っても現実こそ大事と言うべきところを、現実に希望が無いなら幻覚でも良いとはなかなか言えないし、そう言えてしまう世の中でもあるという事なのだろうか。


『マッドマックス 怒りのデスロード』

ジョージ=ミラー監督作品『マッドマックス 怒りのデス・ロード』を観た。

荒野、改造車の傍らに男が佇んでいる。入り乱れる無線の音、脚元に現れたトカゲを踵で踏み潰し、口に運ぶ。

男たちに捕らえれ、生きた輸血袋としてスキンヘッドの色白男に繋がれる主人公。隻腕の女性と首領の妻たちが逃げ出すという事態に輸血袋として巻き込まれる。物語はただひたすらに死のレースを描くのだが、全く無駄が無い。例えば、主人公が隻腕の女性と首領の妻たちと出会い小競り合いになるだが、主人公が放った銃弾は美しい首領の妻の一人の足を掠める。彼女は逃亡劇の中、脛から一筋の血を垂らしていたが為に、車から振り落とされ命を落とす。因果関係、そして行動と動機が一致した世界だが、荒廃した望むべくも無い世界だ。生きた輸血袋、子産み女、母乳生産装置と化した女たち等、よくよく考えてみればえげつない描写があるものの、気にする暇さえ無く、馬鹿げた改造車が荒野を疾駆し、爆炎を放ち残骸と化して行く。

しかしシャリーズ=セロンは何時観てもセクシーだと思う。

隠し砦の三悪人

黒澤明監督作品『隠し砦の三悪人』を観た。

大名同士の戦いに参加するも何も出来ず、捕虜となるも反乱が起き、何とかその場を逃げ出した百姓二人は、偶然にも金の延棒を発見する。大名の隠し財産だとはしゃぐ百姓だったが、そこに屈強な男が現れる。

百姓二人が金やら女に対する劣情を露わに、臆面も無くしゃしゃり出て物語を進行していく。この二人を、ルーカスがスター・ウォーズに於いてR2-D2C-3POのモデルにしたと言及されているが、オリジナルは欲望丸出しで憎めない面はあるものの可愛さは無い。

姫役を演じる上原美佐はきりりとした顔が良い。これほど眉毛を描く必要があるのかと思わなくも無いが。

火祭のシーンは東宝らしいなと思う。こういうシーンを面白いと思わなかったが、昭和の日本映画ばかり観ていると慣れてくるから不思議なものである。

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『ゴッド・ファーザー』『ゴッド・ファーザー PART2』『ゴッド・ファーザー PART3』

フランシス=フォード=コッポラ監督作品『ゴッド・ファーザー』『ゴッド・ファーザー PART2』『ゴッド・ファーザー PART3』を観た。

今更ながら「ゴッド・ファーザー」シリーズを観た。PART2までは楽しく観れたものの、PART3はやや冗長、ゴッド・ファーザーであるマイケルの娘役を演じるソフィア=コッポラがかなり浮いていると感じた。

マフィア映画だから暴力描写があって当然なのだが、売春婦が政治家の脅迫の為にあっさり殺されていたりする描写は何とも空しい。容赦無い暴力を振りかざしたゴッド・ファーザー自身も最後はシチリアで抜け殻になっているのは当然の業なのか。

シチリアで爆殺されるシモネッタ嬢が美しい。

マーロン=ブランド演じる初代ゴッド・ファーザーがちょっとした盗みを働き、知らぬ間に成り上がって行く様子は面白い。今後の人生を決める殺人を、初代と二代目共に自ら犯すのだった。

暗殺者が数人登場するが、余りに単純過ぎる決まりを信じ、他のもの一切が背景に引いていくような、前のめり気味の人物として描かれている。

シチリアは、常に意味も無い程に陽に晒され、アメリカの空は常に雲が垂れ込めている。

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七人の侍

黒澤明監督作品『七人の侍』を観た。

物語の主役が侍だとばかり思っていた。しかし物語の終わりに侍を用心棒として雇った農民たちこそ主役だという事が明らかになる。

そういえばと友人が話していた武士道に関する本の話題を思い出した。友人が話していた内容はこんなものだったと思う。「士農工商、つまり武士の次に来るのは農民な訳、お金を稼ぐだけの商人は卑しいという事なの。農民は作物を作り出すけど、商人は金を稼ぐだけなんだよね。では、武士というのは何なのかと言うと、武士は食わねど高楊枝では無いけど、お金を持つ必要は無い訳、物事をやるやらないを決断するだけ。この決断、やると決めたらやるのが武士だと言う事なんだ。」この後、友人はこの決断について、現状の生活に引き寄せて話していた。

「羅生門」では武士の妻真砂を演じた京マチ子が妖しげな美しさを放っていたが、本作でも野武士にさらわれた農民の女房演じる島崎雪子が、火がつけられた山塞*1でニヤリと笑う顔が忘れられない。

雨降るなか暇を持て余し「女でも抱きたい」と呟けば、「身体を動かしてくる」と飛び出し雨に濡れながら刀を振る侍を演じる宮口精二が格好良い。また所狭しと動き回る菊千代演じる三船敏郎が印象に残る。

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*1:さんさい。盗賊等が山中に築いた城塞をを意味する。

風と共に去りぬ

ヴィクター=フレミング監督作品『風と共に去りぬ』を観た。

最近翻訳家である鴻巣友季子がマーガレット=ミッチェルの原作の新訳を発表して話題のようだ。私はヴィヴィアン=リーを観る為に本作を観たのだが、その半生を描いた本作はとても長かった。

南北戦争によってアメリカ南部の栄光が風と共に去ったというのが本作の題名の意図したものらしい。実際、本作前半のアメリカ南部は美しく、ドレスを纏った女性たちを隠そうとするかのように茂る庭の広葉樹は豊かさの象徴とも見て取れる。

スカーレット=オハラは非常に激しい気性の女性として描かれているが、それ故に生命力に溢れている。とても尋常ではないと思える程に。窮地に追い込まれた末の「明日考えましょう」という台詞には笑ってしまう。ヴィヴィアン=リーの美しさを語った教授はこんな事を言っていたと思う。「ああいう場面で「明日考えましょう」なんて普通言えないよ。でもね、そういうものなんです。その事しか考えられないとかそういった時にはね、思いきり電柱に頭をぶつけたり、高い料理でも食べて「あ~食べた、満腹」なんて言って、その後に後悔すれば良いんです。意識をずらしてやれば良いんです。大抵の悩みなんてそれで解決ですよ。概してそんなものなんです。普通言えないよ、でも「明日考えましょう」で良いんです。」

クラーク=ケーブル演じるレット=バトラーが非常に格好良かった。またテーマ曲は改めて素晴らしいと思った。

「欲望という名の電車」と本作について考えていると現実に即する事が必ずしも「自分の心の内」を満たす訳でも無い事が判ってくる。なるほどスカーレットはより現実的だが、しかし内心の変化に気が付く事は出来なかった。またブランチはおそらく現実に即するべきだと知っていた。でなければ過去を暴露される事もなかった。しかし内心を無視する事もまた出来なかったのだ。

取り敢えず明日考える為に我々は寝るべきだと思う。

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欲望という名の電車

エリア=カザン監督作品『欲望という名の電車』を観た。脚本はテネシー=ウィリアムズ。

学生の時、病跡学の論文を読み進める講義があった。論文はたいてい著名な芸術家等が対象になっていたのだが、フィクションである本作のヴィヴィアン=リー演じるブランチが対象となっているものがあった。ここでこの講義を受け持つ教授はヴィヴィアン=リーの美しさについて饒舌に語った。おかげでブランチがどのような症例だったかはすっかり忘れてしまっている。

上記の論文を読むまでも無く、画面に現れたヴィヴィアン=リー演じるブランチは何やら不穏な空気を纏っている。言動のおかしさ、名家気取り、若い男性に対する好奇心、どれもがブランチの実情からずれている。特に若い男性に対する興味を抑えられない様は心苦しい事この上ない。実情に即した着地点であろうミッチとの結婚も、妹ステラの夫スタンリーによる過去の暴露によって破談となり、加えてスタンリーの暴力によって、ブランチは遂に精神の均衡を崩してしまう。

自らの実情に即するとはどういう事なのか、自分に対する脇の甘さが垣間見える時、ブランチが他人事では無いと思えてくる。

羅生門

黒澤明監督作品『羅生門』を観た。

羅生門に通り雨が降り注いでいる。そこに雨宿りの為に男がやってくる。門の下には放心状態の杣売り*1と旅法師がいた。杣売りと旅法師は自身が関わったある殺人について語り始める。検非違使に引き連れられてやって来た事件の当事者たちは、殺人のあらましを語るも、それは全て異なった証言だった。

思うに人は、それぞれの立場に左右され、またそこに意識的にか無意識的なのか、より自らを有利にし、かつ自身の正当性をこしらえようとする。これをエゴイズムと言うのかもしれないが、であればそれ無しで人は生きるのもまた個人のレベルでは困難だろう。これが公共性の方へ高まるにつれ、客観性が必要となるのだと思う。

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*1:木こり。

アメリカン・スナイパー

クリント=イーストウッド監督作品『アメリカン・スナイパー』を観た。

本作はイラク戦争にて狙撃手として従軍し「伝説」と呼ばれたクリス=カイルを主人公としたものである。
女性子供をためらいながらも射殺する。軍人であり、伝説と呼ばれた狙撃手が主人公なのだ、当たり前の光景ではある。しかし、監督であるクリント=イーストウッド「グラン・トリノ」に於いて暴力を放棄してみせたはずだった。本作の違和感は、過去に示された作品との距離感にあり、またこの物語が淡々と肯定的にも否定的にも戦争を描写せず、メッセージ性を読み取り難いところにあった。
ライバルであるイラク人の狙撃手を射殺した後*1、彼はアメリカに戻り、戦争の後遺症に悩まされながら、医師の紹介によって傷痍軍人との交流を始める。この交流が射撃場で行われているのにはハッとさせられる。戦争の記憶を遠ざけるのでは無く、同様の経験を共有し向き合う場なのだろう。しかし、その射撃場で、主人公はやはり戦争の後遺症に苦しむ若者に射殺されてしまう。エンディングには彼が葬送される様が流される。正直に言えばどのような感慨を持てばいいのか判らなかった。ただ意外にも忘れていたのは、戦争に行きその場で死ななければ、日常に戻り生きて死を迎えなければならないという当たり前の事だった。

*1:この戦いのシーンが余りにもフィクションという感じがしたので少し興醒めした。

神々のたそがれ

アレクセイ=ゲルマン監督作品『神々のたそがれ』を観た。原作はアルカジー&ボリス=ストルガツキー著「神様はつらい」になり、早川書房の「世界SF全集 24 ゴール、グロモア、ストルガツキー兄弟」に大田多耕訳が収められている。
まず、中原昌也のコメントが傑作なので紹介しよう。

久々に登場したSF映画の名作。宇宙船もタイムマシンも出てこない、汚泥と殺戮の蛮人オリンピックが今、開幕!かつてギュネイは『路』で獄中からシャバの映画を撮ったが、ゲルマンは死後の世界から現世についての破壊的傑作を撮ってみせた。即、金メダル授与内定!!死んだもん勝ち!!

このノリノリのコメントを読む度に笑ってしまう。そんな中原昌也Hair Stylistics 名義で本作音源の Remix を製作している。これはパンフレット付録として限定販売されていた。おそらく上記の通り、汚泥と殺戮の効果音が採用されているのだろう。

地球より八百年程進化が遅れた惑星に派遣された地球人たち。彼らの目的は未開の惑星の人々に溶け込み情報を収集する事だった。アルカナル王国はルネサンス初期を思わせる城が建っていたものの、ルネサンスは実現せず反動化が進み、大学が破壊され知識人狩りが行われた。知識人狩りを主導したの王権守護大臣ドン=レバの分隊であり、灰色の服を着た家畜商人や小売商人から編成されていた為に灰色隊と言われた。灰色隊の勢力は勢いづき、王の護衛隊さえ押しのけられていた。
第十七代貴族ドン=ルマータは地域の異教神ゴランの非嫡出子とされ皆から恐れられていた。しかしその正体は惑星に派遣された地球人だった。ドン=ルマータは知識人を匿うべく努めているところ、隣国イルカンから訪れるはずだった聡明な医師ブダフが王国領内で行方をくらました事を知る。

本作に状況説明は上記のようなもの以外ほとんど無く、モノクロの映像から物語を読み取るしか無い。視線は映像の取捨選択が出来ず、ただただ膨大な映像を眺める事になる。実際、物語の理解はパンフレットの映画評論家である遠山純生の解説に多くを負っている。この解説はアルカジー&ボリス=ストルガツキーの原作と比較しながら内容を追ったものとなっている。映画鑑賞時は未読だったが、現在は古本屋で原作を手に入れ読み終わったところである。物語の筋はほとんど変わらないが、映画と原作では全く違う感慨を抱く事になった。

…ハリボテの小屋に降り積もる雪、走り疲れ腰を下ろす巨体の男、カメラを見つめる原住民たち、解体された肥溜めの小屋から飛び立つ雀、罵倒されながら肥溜めで処刑される読書家、鉄靴にこびりついた汚泥、笛の音色、灰色の野蛮人、天井から吊るされたカメラを遮る紐、主人に集まる鎖に繋がれた奴隷、原住民と見分けのつかない地球人たち、愚かにしか見えない貴族の恋人、酔いのまわった威勢良い貴族、吹き上がった炎の影で真っ二つに斬られる椅子、クーデターによりバラバラに解体された幼い皇太子と裸の乳母たち、貴族の正体を暴こうとしながら恐れる大臣、灰色隊に成り代わる神聖軍団、肩に載るフクロウ、空中に吊るされ泣き叫ぶ女性、吊るされる貴族、血を顔に塗る貴族、お手上げだとカメラを見つめる貴族、首をくくられ風に揺れる知識人たちの亡骸、聡明な医師との虚しい問答、無数の矢に射られた貴族、恋人の突然の死、牛を模した兜を被る地球人、街を覆う死体の山と王権守護大臣の腹から飛び出す内蔵、疲れ果てた地球人、地球に帰らないと語る地球人、奴隷と共に何処かへ向かう地球人、笛の音…

王権守護大臣諸共街の人々を皆殺しにしたドン=ルマータ。映画では、もはや人の醜さ、どうしようも無さを嫌ほど知ったはずにも関わらず、未開の惑星に残ると仲間の地球人に語る。最早、彼は未開の蛮人となったのか?しかし彼は奴隷に鎖を好い加減に外せと言いながら笛を吹いている。
一方、原作のドン=ルマータは地球に帰り、幼なじみと再会を果たす。しかし幼なじみは、ドン=ルマータと名乗っていた男の手が赤く塗れている事に気が付き―それは野苺を摘んでいた為だったのだが―差し出した手を元に戻してしまうのだった。

インターステラー

クリストファー=ノーラン監督作品『インターステラー』を観た。

広がるトウモロコシ畑、主を失ったドローン。地球規模の異常気象に為す術も無い人類は、軍隊を解体し、教育を諦め、科学技術を放棄、衰退の一途を辿っている。ある時、元宇宙飛行士のトウモロコシ畑農場を営む男性は、娘が発見した本棚のポルターガイスト現象が意図的なメッセージである事が気がつく。メッセージが示した座標軸に辿り着くと拘束されてしまうものの、その場所は解体されたNASAの秘密基地だった。NASAでは発見されたワームホールを利用し人類を他の惑星に移住させる計画が進行していた。既に三人の科学者がワームホールを通過、居住可能の信号を地球に送っているという。かつての仕事仲間から計画に参加するよう促される男性。しかしいつ帰れるとも判らない計画に娘は意固地に反対し納得を得られない。必ず帰ると約束した男性は計画に合流、宇宙に飛び立つ。ワームホールを通過後、最初に選定した水の惑星では先に着いた飛行船の残骸のみ発見、突如襲った津波により仲間を失う。強い重力場によるウラシマ効果は娘との再会の約束、ひいては人類の滅亡に間に合わないかも知れない。男性と科学者たちは焦燥感を抱く。地球から都度送られる過去からのメッセージで息子が家族を持ち、子どもを生んだ事を報告している。しかし娘は頑固に姿を現さない。既に成人しNASA相対性理論と重力について研究しているという。しかし地球時間の長い経過により遂に娘はメッセージに姿を現し、最後にはこの計画は地球人類を放棄する意図だったと計画立案者が死の間際に漏らしたと涙ながら父を非難する。計画の心労と科学者たちの思惑が入り乱れるなか第二の惑星を選定。氷に包まれた惑星で飛行船に眠る科学者が発見される。科学者は地下に水が流れるこの惑星は開拓の余地があるという。しかし彼は地球への帰還の為に暴走、男性に襲い掛かり、飛行船の記録を読み込もうとする科学者ごと爆破、男性が止めようとするも宇宙船へのドッキングを試み暗闇に四散する。仲間を失い燃料が尽き傷ついた宇宙船。最後に残された男性と女性科学者は最後の惑星を目指す。しかし男性は自ら宇宙船を切り離し、女性科学者を最後の惑星への軌道に送った後、ブラックホールへ突入。するとそこは自宅の本棚裏の五次元空間、男性はワームホールの未知と接触を果たしたのだった。人口知能の力を借り本棚の表、過去の娘に信号を送る男性。気がつけば男性は宇宙に放り出されていた。そこに現れたのは宇宙に進出した人類。病室のベッドで目覚める男性。窓の外に見えるのは娘の名を冠した大通りだという。娘の新理論の発見により人類は地球からスペースコロニーへ脱出していた。父との約束を果たす為に長い眠りを繰り返していた娘はベッドの上で何人もの子どもたちに囲まれている。娘は父に対して女性科学者が待っていると告げ息を引き取る。男性はその言葉を受け人口知能と共に女性科学者の元へ飛行船で飛び立つのだった。

特に予備知識も無く仕事帰りに映画館に赴いた為、宇宙を題材にした内容にも関わらず、冒頭スクリーンに写ったトウモロコシ畑には意外性を感じた。地球は愛着を持てない過酷な環境であり、新理論発見後のスペースコロニー内は牧歌的で穏やかな場所として描写される。同じ宇宙を題材にしていていも「ゼロ・グラビティ」とは方向性が全く違っており地球は帰る場所と示されない。アメリカ的な開拓精神が反映されているのだろうか。宇宙船はどこか脆そうでくたびれた雰囲気があり、スタイリッシュなのは惑星探査用の小型宇宙船と「2001年宇宙の旅」のモノリスHAL9000のオマージュであろう可変型モノリスの人口知能ロボットTARSとCASEである。この二体のロボットのユニークな動きと会話が楽しかった。美しかったのは、本棚裏の色彩豊かな光が眩く錯綜する五次元空間だ。この空間が、あらゆる可能性を孕み何も為せない事はその美しさと本棚の裏であったという事実が明白に語っている。何より本作の素晴らしさは、宇宙旅行がもたらす各種設定を父と娘の約束の間に巧妙に織り込んだ事だろう。自分だけ年を取らず、子どもたちが瞬く間に老けていくのを見るのはどんな気持ちがするのだろう。
非常に見応えのある映画だった。但しこうやって平易に語れてしまうところに単純過ぎる嫌いがあるような気もする。

小さいおうち

山田洋次監督作品『小さいおうち』を観た。
中島京子原作。原作は未読。「舟を編む」に出演していた黒木華が気になり本作を観賞。尚、本作で黒木華はベルリン映画祭女優賞を受賞している。

大学生健史の大叔母で戦前女中をしていたタキが亡くなる。タキの遺品を整理していると一冊の大学ノートと封がされた手紙が見つかる。大学ノートは健史が書くように薦め、時折読ませて貰っていた自叙伝だった。
山形から女中として上京したタキ。小説家の家で働いた後、おもちゃ会社で常務として働く平井雅樹と時子とその息子恭一が住む赤い屋根が目印の家で働き始める。息子恭一が病気になれば按摩師からマッサージを習いそれを息子に施す等家族に尽くすタキ。その後、縁談があるもそこに老人が現れショックを隠せない。同情した時子はタキを慰め、タキもまたこのままこの家で働ければ良いと泣くのだった。ある時、夫の働く会社に勤め始めた芸大出身の板倉が家を尋ねる。趣味を同じくした時子と板倉は互いに親しみを持つ。その後、夫と行きそびれたコンサートで板倉と出会う時子。一方、雅樹は板倉に縁談を持ち込み、仲の良い時子に話をまとめるよう託す。その後、時子が縁談の説得するものの板倉は固くなに拒否し続ける。そしてある時、板倉の下宿先から戻った時子の帯が結び直されている事にタキは気がついてしまう。戦況が悪化するなか時子と板倉の仲が一目につくようになり思い悩むタキ。そして板倉に召集令状が届く。板倉は最後の挨拶を終えるとタキに「僕が戦争に行くのはタキちゃんたちの為だからね」と語る。板倉の出征前、板倉の元に向かおうとする時子を止めるタキ。タキは時子を説得し手紙を書くように言う。そして手紙を預かったタキは板倉に元に出向くのだった。しかし板倉は時子の前に姿を現さず出征。戦局の悪化に伴いタキも実家に戻る。その後空襲で雅樹と時子が防空壕の中で焼死する。タキもその後の事が判らずじまいとなってしまう。
健史は自叙伝を読みながらタキが記す戦前の様子に疑問を挟み、また板倉に恋をしていたのではないかとからかう。しかしタキは呆れるばかりで相手にしない。しかし時に「長く生き過ぎた」と泣くのだった。
就職した健史は恋人から書店で「小さなおうち」という絵本をプレゼントされる。そして板倉の展覧会が開かれる事を書店のポスターで知る。板倉は戦争を生き延びていたのだ。その後、板倉の作品を収めた記念館を尋ねると学芸員から平井家から以前連絡が届いていた事を伝えられる。記念館にはタキが家に飾っていた赤い屋根の家の絵が飾られていた。健史と恋人は平井家を尋ね盲目で歩けなくなった恭一と出会う。恭一の許可を貰い手紙の封を開け中身を読むと時子がタキに促されて書いた板倉への手紙である事が判明する。タキは板倉に手紙を届けていなかったのだ。恭一は母の不倫の証拠をこの年になって見せられるとはと嘆く。その後、恭一と共に海辺を散歩する健史と恋人。恭一は普通の事が憚られる時代があったのだ、タキちゃんがこの手紙を渡さなかった事を気に病む必要は無かった、赦される事だと思うと言う。健史は大叔母に聞かせてあげたかったと涙を流すのだった。

タキが胸に閉まっていた小さな秘密。それは誰もがどこか抱えてしまう秘密であり、秘密は抱えたまま生きるしか無い。たぶんそれが人生なのだ。そんな事を思った。時子演じる松たか子は凛として美しく、若きタキ演じる黒木華もそれに劣らない。

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『ニンフォマニアック Vol.2』

ラース=フォン=トリアー監督作品『ニンフォマニアック Vol.2』を観た。

Vol.1の続き。女性の語りは更に続く。これはVol.1の内容かもしれないが、死を前にした父は病院のベッドで錯乱するなか、別れた母の名を呼ぶ。それを前にした彼女は病院で働く男性を誘い移動式ベッドの上でセックスをする。再会を果たした初体験との男性との間に子どもが出来、オーガズムの影響を気にした彼女は帝王切開で子どもを産む。その後もセックスを求める彼女に夫は応える事が出来ず外注するよう伝える。黒人男性とセックスの望んだ彼女は通訳を雇い道端の黒人男性をホテルに誘う。ホテルにやって来たのは二人の黒人男性。しかし下半身を露出した黒人たちは彼女を前にしてヴァギナとアナルへの挿入-ペニス同士の接触快感!で議論を始めてしまい、彼女はその場を後にする。更にサディズムを専門とする男を訪れ再三拒否されるなか遂にプレイに及ぶ。しかし夜半の外出中、子どもがあわやベランダから落ちそこねるという「アンチクライスト」のような事態が起きる。これに激怒した夫は「それでもセックスを求めて子どもを置いて出掛ける」と語り離婚する。勤務先の上司の命令でセックス依存症を治すセラピーに通うも最後には自分は色情狂だと宣言した彼女はその後、男の秘められた欲望を喚起し辱める借金取り立て人となり成功する。しばらくすると上司は仕事を後進に譲るよう勧める。自身の身代わりになる後進に選ばれたのは身体にコンプレックスを抱く少女。足繁く彼女の元を通い身元引受人になるが、少女は彼女を求め応じ彼女は涙を流す。身元引受人になったのは自身の身代わりの為である事を話しても少女は「そうじゃければ出会えなかった」と意に介さない。仕事にパートナーになった少女と共にある家を尋ねようとすると元夫の家である事が判り、動揺した彼女は少女一人で仕事をするように言いその場を後にする。その後、仕事を少女に任せるようになった彼女はある予感を察知し元夫の家を尋ねる。すると窓から見えたのは裸の少女と元夫が愛しあう姿だった。途方に暮れた彼女は、拳銃を取る。路地裏に潜み少女と共にいる元夫を殺そうとするも安全装置は外さなかった為に失敗、殴り倒された彼女の前で元夫は自身の初体験と同じように少女を同じ回数ペニスで突く。そして少女は尿を彼女に垂らしてその場を後にする。そして行き倒れているところに老人がやって来る。話を終え、明日からまたやり直そうと語る彼女。しかし眠る彼女の元にズボンを抜いだ老人がやって来る。これを拒否した彼女に老人は「何度も男とセックスして来た癖に」と言い放つ。画面は暗転し、安全装置が外された拳銃の数発の発射音の後、部屋を出て行く彼女の足音が聴こえるのだった。

まず第一に確認したいのは主人公の女性は色情狂と語るも自分が望まないセックスは一切しない。これを勘違いした彼女の物語の解釈もといこじつけていた老人は拒否され死ぬ。尚、この老人は作中で童貞である事を告白している。老人は概念を弄ぶ事を好むオタクであり童貞なのである。正直この老人は他人事では無い。
さて既に本作は解釈する事に意味が無く、例え解釈してもこの惨めな老人になるしかないと指摘済みである。しかし二村ヒトシの「なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか」は正に主人公の女性の行動を説明しているのでは無いかと思う。彼女は愛を欲さないと言いセックスし続ける。しかし結局自分には愛が無いという事態を意識さぜる得ない事には変わり無い。その代わりにセックスをし続けている。しかも一般にセックスは愛情を伴うものとして扱われるが、彼女は愛を求めないと宣言する事によって、セックスの虚偽を明らかにし続ける。つまり彼女はセックスをすればするほど、愛は必要無いと認識し、その代わりにセックスを求め続ける事になる。彼女に救いは無いようにも思える。しかし結局外部に拠って立つ処が無ければ-現代にそれが無い事は明白だが-自身で拠って立つ処を必要とする。たまたま彼女はセックスだっただけに過ぎない。
また本作の音楽が素晴らしかった。タルコフスキーもBGMに使用したバッハの「「われ汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ」Choral Bwv 639」、ラムシュタイン「Führe Mich」、シャルロット=ゲンズブール はジミ=ヘンドリクスの「Hey Joe」をカバーしている。詳細については別記事に譲る。