グラン・トリノ

『グラン・トリノ』を観た。

あまり映画を初日に観にいくことはないのだが、この作品は観に行った。観客は満員というわけではないが、それなりに席を埋めていた。
クリント=イーストウッド監督作品。『チェンジリング』を観に行って間が空くことなく、クリント=イーストウッドの作品を観ることになった。

この映画は素晴らしい。深刻な物語だと思って観に行ったのだが、ユーモアに溢れていて観客が笑っていたくらいだ*1。もちろん悲惨な出来事も起こる。しかし終わってみればすがすがしさも残る。

こうやってほめてばかりだと、ちょっとひねくれている人なら観ないという選択をするかもしれない。私も少し前はその種の人だった。今は少しそんな傾向が薄れて、そんなにいいなら観てやろうじゃないか、と読むなり観るなりするようになった。

だからあまり書くことは無いかもしれないが、少しこの映画について語ってみたい。というより語りたい。いいとばかり言わないで少しだけ持った違和感と共に。

クリント=イーストウッド演じる老人は相当頑固者だ。亡くなった奥さんの葬式に参加する孫の言動、綺麗事を抜かす牧師に悪態を吐く。家の周りに住むようになった移民、アフリカ系、アジア系の連中も気に食わない。奥さんの遺言に従い、件の綺麗事を抜かす牧師がやってきても童貞野郎と追い払う。息子の乗っている日本車も気に食わない。これは彼がフォードの組立工であったことに由来する。彼はガレージに自分が組立工として参加したヴィンテージ車グラン・トリノを所有している。ピカピカのグラン・トリノは車に興味がない私でも惚れ惚れする格好良さだ。そして彼の人生を決定づけたであろう出来事、それは朝鮮戦争で人を殺したこと、しかも自分の身を守るために命令なしで殺してしまったことだ。

そこに彼のグラン・トリノを盗もうとする輩が現れる。それは隣に住むアジア系、モン族の少年だ。少年は不良にけしかけられて盗みを働こうとする。しかし老人に追い出され失敗する。少年の行動は家族に伝わり、モン族のしきたりとして老人の手伝いをすることになる。そして老人も渋々それを承諾する。そして老人は知らぬ間に少年を男として育てることに心地よさを持つようになる。

ここで出てくるモン族というのはラオス、ベトナム、タイなどに散在する民族らしい。ベトナム戦争時にアメリカに加担した。そのため戦争後難民となりアメリカに移住することになったらしい。この映画は老人の過去、モン族の過去から一筋縄ではいかない歴史が垣間見えてくる。

そして老人は殺人という暴力に対して非常に嫌悪感を示してみせる。とはいっても庭に不良どもが入っただけでライフルを取り出して威嚇してみせるのだけど。そんな彼の殺人の嫌悪感と暴力性が最後どういう形で表れるのかが、この映画の重要なことだと思う。そしてその格好良すぎる最後に困惑してしまう。だって本当にスゴイんだから。

さて私がこの映画でとても考えてしまうのは男ということだ。はっきりいって男らしさ、女らしさとかいわれると勝手にやらせてくれよ、とウンザリする。しかし、少年が老人から男としての気構えを教わり成長していく姿を見ると、果たして私は男としての格好良さとかあるのかなと思った。おそらく、私にはそれが希薄だろうと思う。私は男らしさとか、女らしさとかに対して、下らないと一笑に付して考えようとしなかったのだ。遠ざけて、見ようとさえしなかった。別に男らしさとか女らしさとか言わなくていいかもしれない。はっきりモノをいう、とか、やる気を見せるとかそういったことでもいい。そういうものがないのだ。この辺りもっと掘り下げると私はウンザリすることになるだろう。現実に。

そして最後に映画に題されたグラン・トリノという車と少年をけしかけた不良たちのこと。この不良共がチンケでどうしようもない情けない奴らなのだが、本当に最後まで救いようがない。しかもチンケなもんだから、最後まで下らない。この不良の描き方、どうにかならんかね。そしてグラン・トリノ、日本じゃ若者に車が売れないというけど、アメリカではどうなんだろう。この車非常に格好良い。だけど車の意味を継承できない若者にとって、それこそ老人と若者のジェネレーションギャップなんじゃないかと思わなくも無い。いや、本当に格好良い車だ。

チンケな違和感なんだけど。これじゃ違和感とはいわないか。

*1:ただ年配の人が多い映画館で、老人が家族から施設に入るのを勧められるところは誰も笑ってなかった。たぶんあそこも笑うところなのだろうと思うのだけど…。そこで苦笑いをした私はやっぱり男らしくないのかもな…。