1995年

速水健朗著『1995年』を読んだ。
友人から借りた本の中の一冊。

見田宗介大澤真幸東浩紀等が「理想の時代/虚構の時代」の終わりの転換点として捉える1995年。この一年を分析したのが本書の内容になっている。

1995年を個人史から捉えるならば、阪神淡路大震災も東京で起きた地下鉄サリン事件もニュース番組で見ていたものの、子どもであった私にとってはどこか遠いところの出来事であり他人事でしか無かった。その頃熱中していたのはスーパーファミコン用ソフト「クロノ・トリガー」、タイムトラベルが題材であったこのゲームの中で紀元前65000000年から西暦2300年を飛び回っていた。自意識に目覚めるのはもう少し後、片田舎の学校で相対的に勉強が出来る事に気が付き、親や兄弟の影響で本を読み始めた頃と今思えば重なる。当時の私は考えもしなかっただろうが、東京の当の事故が起きた電車に毎日乗り、勤務先では阪神淡路大震災の為に現場に駆けつけた社員が経験豊富な管理職になっている。度重なるテロをニュースで眺め、東日本大震災を経験した今となっては、どこか遠いところの出来事でも他人事でも無かったのだと思う。

本書は上記に挙げた事件以外にも文化的な事象等を詳細に挙げていく構成になっている。一体あの一年に何が起きていたのかを知るのは悪く無いと思う。

1995年 (ちくま新書)

1995年 (ちくま新書)

左巻キ式ラストリゾート

海猫沢めろん著『左巻キ式ラストリゾート』を読んだ。
友人から渡された本の一冊。このまま後二冊も続く。好い加減にして欲しい。まずあらすじを確認してみよう。

目覚めた僕は記憶を無くし、12人の少女たちが暮らす見知らぬ学園にいた。僕の覚醒と時を同じくし、外部を喪失した学園では、トーチイーターと名乗る犯人による強姦事件が連鎖的に起こる。次々と餌食になる少女たち。犯人は誰なのか、この閉鎖された学園は何なのか―そして、僕はいったい誰なのか…。
「BOOK」データベースより。

本書をまずめくると「ひぎぃ」とか快感のむせび泣きなのか悲鳴なのかどちらともつかない言葉が並んでいる。主人公は強姦事件を解決すべく、12人の少女たちと強姦を再現するというかたちで官能小説のようにセックスをし続ける。そんななか哲学的な問答が登場人物たちによって交わされる。

男のベルトを手間取りながら解く。ズボンを膝先まで脱がしたところで下着のゴムに手を掛けたまま膨らんだ部分に鼻を擦りつけた。「エッチな匂いがするね」笑いながら頬で撫で唇を当てた。摩擦と笑いに興奮したのか男は下着に掛けた指に手を伸ばし下に降ろさせる。「我慢出来ないんだ」陰毛に隠れたペニスが下着から飛び出す。しかし些かペニスが小さい。男は短小だった。短小のペニスを初めて見る。おそらく男の様子からこれが勃起した状態なのだろう。親指程度しか無い。男の視線を無視しパンツからペニスと睾丸を取り出しそのまま顔を押し付ける。「あったかい」そう言いながら男を仰ぎ見る。男は嬉しそうなを顔をした。そのまま生い茂った陰毛を避け小さなペニスの先に唇に挟み音を立ててキスをする。そして舌で亀頭を上から下へと撫でる。するとペニスの先から苦い愛液が滴り出す。そのままペニスの根本まで口に含み舌を動かす。どうやら短小のペニスに戸惑った事はごまかせただろう。亀頭を加えて唇で何度も摩擦を加えていると男は少し呻いた後、私に覆い被さり荒々しく服を脱がし始めた。果たして短小のペニスで私は感じる事が出来るのだろうか。男はこれまでこんなペニスで女性を悦ばせる事が出来たのだろうか。

女はペルトを手間取りながら解き始めた。このまごついた動きは演技なのだろうか。スボンを脱がし下着に顔を押し付けている。女は「エッチな匂いがするね」と言った。おそらく彼女は下着の膨らみが些か小さい事に気が付いただろう。早くこの短小のペニスを見せたい。下着の上からの愛撫が続く。女が下着に掛けた指を下に降ろさせる。女は「我慢が出来ないんだ」と言うが、そんな事は無く期待を裏切りたいだけだった。下着から短小のペニスが飛び出す。女の視線はペニスに向いてこちら見ない。驚いているのだろう。大抵の女がそうだった。この女のその中の大勢の一人に過ぎない。どの様に驚きを隠すのだろう。女はそのまま下腹部に顔を押し当てて「あったかい」と言いこちらの様子を伺った。思わずその台詞に笑ってしまう。女は型通りのフェラチオを始めた。劣情による興奮がペニスの先から我慢汁が滲ませる。早く女の中に入りたい。感じたフリをするだろうが、その実入った事も判らないだろう。女に覆い被さり服を剥いでいく。女が目を細めながらこちらを見ているのが判る。それを無視し下着に手を掛ける。

そしてメタ視点によってそれが読者の欲望だった事が明白になっていく。そのような話だったと思う。

なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか

二村ヒトシ著『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』を読んだ。
著者の「すべてはモテるためである」を読んで以降、女性向けに書かれた本書も読もうと思っていた。ある時、暇を持て余して本屋に寄ると國分功一郎の選書に本書が含まれており「256頁の山本直樹の挿絵を見て思うところがあったら本書を手に取って欲しい」という趣旨の紹介文が目に止まった。本書を手に取りその頁を開いた後、私はレジに向かう事にした。その挿絵には、何ともいえないつまらなさそうな顔をこちらに向けた下着姿の若い女性が描かれていた…。

本書の内容については湯山玲子の解説を読むのが手っ取り早いのだが簡単にまとめてみよう。キーワードとなるのは自己受容である。愛されない人を好きになるのは自己愛によるものである。本書ではこの自己愛をナルシズムと自己受容の二つに分ける。ナルシズムとは、「美しくなりたい」「もっとより良い自分になりたい」という向上心の源であり、自己に対する恋である。一方、自己受容とはありのままの自分を認め愛するという事である。ここで前提になるのは恋と愛の違いである。恋とは他人を欲し自分のものにしたいという欲望であり、愛とは相手を肯定する事である。ナルシズムは向上心の源である一方、自己否定を生み出す可能性がある。そこで本書は自己受容の重要性を説く。では自己受容とは何であろうか。それは自分自身の感情や考え方の傾向性を把握し肯定する事である。本書ではこの傾向性を人の魅力と欠点を生み出す心の穴と表現している。

といった内容になるのだが、なるほど自己受容と言えば少し難しくはあるものの、自分の傾向性を知る事と言えば解りやすく、それなりに生きて来て思うところはある。尚、本書ではインチキ自己受容というものもあり、あくまで自己受容とは一度すれば良いものではなく、常に確認が必要な進行形のものとして語られる。自己もまたコミュニケーションの中でその傾向性を変えていくものであり、自己受容とは自らの変わりゆく拠り所を把握する作業とも言えるのだろう。

『るろうに剣心 伝説の最期編』

大友啓史監督作品『るろうに剣心 伝説の最期編』を観た。
るろうに剣心』実写版の続編。志々雄真実内乱を描いた二部作の後編。

前編「京都大火編」より戦艦煉獄から海に落とされた薫を助ける為自らも海に飛び込んだ剣心。しかし薫を助ける事は出来ず波打ち際に倒れているところを福山雅治演じる飛天御剣流継承者比古清十郎に助けられる。そして何故か剣心は薫がどうなっているかも判らないにも関わらず奥義習得のため修行を始める。尚、薫も無事救出され病院にて療養。その後やるべき事を終えたと東京に戻る。一方、東京湾周辺に現れた志々雄は明治政府伊藤博文と会談。明治政府の重役が殺されるなか志々雄は剣心を捕らえるよう脅し、形だけではあれ剣心はお尋ね者になってしまう。
やたら尺が長い奥義習得のエピソードを終え、お尋ね者になった剣心は御庭番衆の助力により京都から東京まで抜け道を通る事になる。そこに現れたのは最強の二文字を手に入れるべく剣心を狙う四乃森蒼紫。翁と操がやたら絶叫するなか剣心と四乃森蒼紫の戦いが始まる。この戦いで剣心は天翔龍閃以外の技を大体使っており、割と地味な九頭龍閃で四乃森蒼紫を倒す。前半のアクションシーンの見所である。尚、この戦いで四乃森蒼紫と戦い負傷していた翁が絶命。正直殺す意味が判らない。神谷道場を訪れた剣心は留守を守っていた高荷恵と再会するが待ち伏せていた官憲が集合。剣心はおとなしく捕まる事になる。沿岸で志々雄真実の配下等が見守りつつ剣心の処刑が行われようとするなか薫たちも集合。剣心が暗殺した者たちが読み上げられる。その中には清里明良の名前もあったりするが映画の中で剣心と巴のエピソードは無く、あくまで左頬に傷を負うシーンが映画第一作にあるのみである。さてそこで処刑人として扮装していた斎藤一が剣心の縄を解き乱戦に突入。十本刀も登場するものの宇水が斎藤一牙突であっさり死ぬ程度。そのまま船で戦艦煉獄へ。剣心は宗次郎と戦い執拗に足を攻撃し宗次郎の早さを奪って倒す。一応船内の壁を使って攻撃するといった縮地っぽい演出がある。一方左之助は安慈と戦う。しかし安慈は十本刀の悲しい過去を紹介する役割のみのようで二重の極みも無く唯の肉弾戦で左之助に敗退。遂に志々雄真実との最終決戦、左之助とどこからともなく現れた四乃森蒼紫とは面識が無い志々雄真実は「何だお前」「邪魔だ」とか言っている。志々雄がやたら頑丈で強く、剣心、斎藤一左之助、四乃森蒼紫と互角に戦い切る。そして残った剣心と志々雄との戦いの末、駒形由美が身体を張って絶命。そして最終局面、剣心が天翔龍閃によって志々雄を原作通りふっ飛ばす。立ち上がった志々雄は駒形由美を抱き自ら発火して消える。
沿岸に戻り伊藤博文は「緋村剣心は死んだ」と言い、警官たちは海に向かって敬礼する。
その後、神谷道場でいつも通りの居候生活に戻った剣心の姿があり、薫に「共に生きよう」と告白するのだった。

るろうに剣心」は時代の変わり目に於いて罪を背負った人々、先の時代の価値観を捨て切れない人々、新しい時代に乗りきれない人々の生き様を描いた作品である。これが判るのに十年以上要した。大抵若い頃に手を伸ばした作品はもう一度読観賞する必要があるなと思う。

クリュセの魚

東浩紀著『クリュセの魚』を読んだ。
友人から渡された一冊。既に本書は友人に返している。

2400年代の火星、地球と火星はワームホールの発見によってその平穏な関係が変わりつつあった。火星に住む少年葦船彰人がある年上の少女大島麻理沙と出会い恋に落ちる。その後、複数回の逢瀬を重ね、大島は葦船の子どもを産み、自爆テロを地球圏で敢行、帰らぬ人となる。大島は中国共同体に支配され消えた日本皇族の末裔だったのだ。残された子どもを彼女の支援者である男性から受け取り火星で赤ん坊を育てる葦船。その後、ネット上で絶大な人気を誇るアイドルとなった少女はコミケ会場となっている皇居跡地で自らが皇族の末裔である事を発表しようと画策する…。

東浩紀SF小説を読むのは「クォンタム・ファミリーズ」以来だが、それよりは判りやすいものとなっており、各種ガジェット等も細かく描写され面白かった。意外だったのは小説という形ではあれ、天皇家を題材にしている事である。余りこの点を言及しているものを見掛け無かったのは、思想家としてでは無く小説家の作品として発表されている為だろうか。ここで描かれる天皇家の末裔大島は意外にもとても保守的な行動を取る。まず大島は日本人の末裔である葦船との子どもを残す事になるが、葦船に子どもを渡した支援者の外国人とも関係を持っており「結局彼女は血を優先した。」と悪態を吐かれている。女系天皇容認論が議論されていた時、これを容認した場合、青い目をした男性が皇族になる事が許されるのかと言った意見が目にした事があったが、そういったものは意外にも自主的に守られているようである。蛇足だが女系天皇容認論の反対意見に遺伝子による説明をしているものを見掛ける事があるが、万世一系を信じているのならば伝統を守るべきだという論理性は除外した立ち位置を取るべきだと思う。
さて天皇の末裔である為に、国が亡くなったにも関わらず自爆テロを敢行させる決心をさせ、またその血の為に歴史の表舞台に少女が立とうするのはどのように考えるべきだろうか。天皇制は過去日本国民に強制力を働かせるものであった。しかし象徴天皇制によって皇族たちに強制力を働かせるものになり、形だけであれ政治性は排除されている。とは言え皇族の発言は政治性を自ら排除しているため曖昧ではあるものの、それを受け取った人々はまた自ら政治性を補完して受け取る構造になっている。そして政治性を補完した意見が都合良く利用されているのが現状である。さて少し話が逸れてしまったが、現状の象徴天皇制の場合、国民は皇族に自主的な強制力を働かせる。逆説的に強制力が働いていると認識する事によって象徴天皇制は維持されている。本書に於ける少女たちの決意と行動は、現在の皇族と国民との関係の強制力だと考えられる。つまりこの強制力によって国民は皇族に行動を迫り、また死地に追いやる可能性があり、そしてそんな事は誰も望んでいないと思うのだがどうだろう。

2015年4月12日〜2015年4月18日

誤ってスパークリングワインを買ってしまう。炭酸は苦手なのだが、これはこれで美味い。

公園では遅めの花見が開かれている。桜は散ったが、新緑が鮮やかだと思う。

Instagramが開かない。

コタツ布団を洗い外に出して干す。

喉が痛い。風邪をひいたのかもしれない。

コロロギ岳から木星トロヤへ。時間を一次元として三次元の空間に干渉する人間。空間を一次元とし三次元の時間に干渉するカイアク。非常にわかりやすい例えである。

カレーを久々に作ったところ、それなりに上手くいった。以前から気づいていたが問題は水の量なのだ。とはいえ所詮百円カレールウのカレーであり味に差は表れない。

欲望という名の電車を観た。概要は知っていたものの登場早々どうにもヴィヴィアン=リー演じるブランチの様子がただならない。マーロン=ブランドのろくでなし振りも良い。

風と共に去りぬを観た。南部の栄華が風と共に去ったいうタイトルの意を初めて知る。しかし聞いてはいたがヴィヴィアン=リー演じるスカーレット=オハラの窮地に追い込まれた末の「明日考えましょう」という台詞には笑ってしまう。そう、人のやる事は一晩休ませればそれなりに解決するようなものなのだ。状況は常に動き、人の心もすぐに移ろう。

診察室からフリルの付いた小さな姉妹が出て来る。思わず笑ってしまう愛らしさだが、それも親の余裕が無ければこうはいかない。診察を終え薬局に出向くと先程の姉妹がソファーに座ってウエハースを頬張っている。手持ち無沙汰なので本棚から銀の匙の一巻を取り出して読む。夢も無いなりに親元を離れそれなりに野望を持った少年がどのように成長するのだろう、そんな事を思いながら本を本棚に戻し薬剤師から処方箋の説明を受ける。本棚にサンデーが置いてあったから薬剤師の趣味なのだろう。

スター・ウォーズで描かれる牧歌的な風景は風と共に去りぬで描かれた南部をモチーフにしているのでは。草原、従者は奴隷から機械人形に変わって。そこから露わになるのはどんなに高度な技術を持っても人間は人間だと言う事だが、よく考えてみるとあの映画は人間と機械の他に異星人もいるのだった。

顔に美顔ローラーを使っている中年女性を見掛けた。そういえば、すごいよ‼︎マサルさんで美顔ローラなんて歌があったよなぁ。更に調べてみるとBase Ball BearにLOVE MATHEMATICSという曲があるが、すごいよ‼︎マサルさんにも青春マスマティックスなんてあったが…これは藪蛇だよなぁ。

同僚と長く話し込んでいると先輩社員からその辺りにして置けと言う言葉を頂く。なるほど、引き際というのはとても大切だと思う。思えばレッド=バトラーも引き際と確固たる決断力を見せていた。

仕事に対する苛立ちを分析した結果、やはり事務所内での業務変更とその直属の上司に起因しているであろう事が判る。問題はそれに対して面白い対策が立たない事だろう。幸か不幸か状況は推移し、現状のやり方を続けるのが無難な様に思える。もちろん、そのやり方も状況が変わるなか自然と落ち着いたものである。

今までの成功が呆気無く崩れ去る事を想定しながら成功について語る。

連日の雨から雲一つ無き快晴。生活を変えようと思った。

Tigran Hamasyan の音楽に異国情緒を見出すのは容易い。空間的な精神性のなかで様々な流れに身を任せているような気分になる。

どこぞかの景品で貰ったタンブラーを持ち出して使う。中身は水。

空白の時間は眠りに変わる。

何かしら夢を見てはいるのだが、仕事絡みの内容と朝日の眩しさに忘れてしまう。

女子高生がフレグランスを振り撒きながら髪を梳かす。

ふと仕事で女性の平仮名で綴られた名前を見掛け、かなり前、幼稚園の頃、同じ名前の同級生がいたのを思い出す。

作業着を着た老人が何をする訳でも無く窓越しに車の往来を眺めている。気がつくと老人はその場から姿を消していた。

Art Blakey & Jazz Messengers の So Tired が楽しい。

髪を鮮やかに染め上げた美容師たちが自転車に空気を入れながら談笑している。

ゴッド・ファーザーを観る。シチリアのシーンに出てくるシモネッタ嬢がセクシーだった。

脚を引き摺った人を多く見掛ける。今まで意識していなかったのだろうか。

上司に客先へ連れられ担当者と名刺交換をする。どういう風の吹き回しなのだろうか。今更と呆れるし、腹立たしい。「こういう事も必要でしょう?」それを一年間させなかったのは誰なのか?徹底的に追及してやりたい衝動に駆られる。

類家心平 4 Piece Band の演奏で感情の起伏を疾走する。

喫茶店のウィンドウから往来を眺めていると決まった時間にスプレーで落書きされたトラックが視界を横切る。

日常の掛け替えの無さとは、代わりがいないという意味だけでは無い。つまらない日常の全てを引き受け無ければならないという、人間存在そのものを指す。

母から幼稚園の頃の写真をメールで貰う。頬がはちきれんばかりに膨らんだ顔を見て笑い、幼い頃は母親に似て、今となっては頭蓋骨が伸び親戚からは父親に似ていると言われる始末。

会社の飲み会の買い出しに出掛け雨に降られる。雨に濡れながら金の話になる。解雇されれば無職の後も食いつなげるなという話で会話が結ばれる。

近い将来なり遠い将来なりがあるのだとしても、結局いつ現れるともしれない死という物差しでしか人生を測れないのであれば、何も期待する必要は無くなり、死が紛れも無い現実である以上、人生とは常にその他の出来事でしか無い。

朝の連続テレビ小説大河ドラマを眺める。土屋太鳳は微笑ましく、清水富美加も出ているとは知らず。大河ドラマは幕末の長州を舞台にしたものだが、これは今の政権与党としては文句もあるまい等と考えてしまうところがつまらない。サウナで彼氏や妻の浮気を調査する外国番組を眺めた。浮気しているシーンが流れると客席から「えー」と声が流れるのは滑稽としか言いようが無い。

卓球場を訪れると同じ住宅街に住んでいた一歳下の男性が場内の端に座っているのを見掛ける。両脚は膝下から、そして右腕が無くなっている。髪も消えかさついた肌をしているが印象的だった眉毛は残っている。声を掛けると「お久しぶりです。ええ、こんな姿になったのは交通事故に遭ってしまったからなんです。しょうがない事だったんです。でもなんでしょうね、人生ってこういうものなんでしょうか?」その問いに応える事は出来そうに無く、俺は一人で動けない彼の身体を抱きしめ涙が流れる頬に額をあて「頑張っている。生きろよ。」等と言った。

願望機

アルカージイ&ボリス=ストルガツキイ著深見弾訳『願望機』を読んだ。

「教授、あんたはどう思う、あの場所は実際に存在するんだろうか?はたして願望はかなえられるんだろうか……」
「〈ヤマアラシ〉は大金持ちになった。彼は金持ちになることが生涯の夢だったんだ」
「なのに、首吊り自殺をした……」
「本当に金持ちになりたくてあそこへ出かけたと思うかね、〈ヤマアラシ〉は?〈ゾーン〉へでかけた理由を、人になんといっていたかわかるかね?実は、彼がなにを望んでいたか、誰も知りはしないんだ。本質は複雑だ。彼の頭はあることを望んでいても、脊髄はべつのことを望んでおり、心はさらにほかのことを望んでいたんだ……そういう混沌としたものは、だれにも理解できるものじゃない。とにかく、ここで問題になるのは、心の奥底に秘められていることだ。わかるだろ?秘められた願望が問題なんだよ!」
アルカージイ&ボリス=ストルガツキイ著(1989)『願望機』深見弾訳,群像社.

アンドレイ=タルコフスキー監督作品「ストーカー」の為に作られながら、結果採用されなかったもう一つの脚本であり、自らの小説「ストーカー〈路傍のピクニック〉」が基となっている。翻訳者である深見弾によれば、アンドレイ=タルコフスキー監督作品による「ストーカー」は一度完成した後、現像所でミスが発生し消滅してしまったらしい。そしてその後もう一度撮影されたのが現在の「ストーカー」なのだ。そしてその再度の撮影でストーカーはインテリとして描かれる事になったのだという…そこでここではストーカー諸作品を簡単に比較する事にした。尚、本書では「スプーン五杯の霊薬」という脚本も収録されており、こちらも面白く読んだ。

・ストーカー同士の駆け引き等が描かれ、ハードボイルドSF小説と言える内容となっている。
・原題「路傍のピクニック」とは、未知が地球に来訪して残していったものが、人類にとって何を意味するのかという比喩となっており、作中で言及される。
・未知が来訪した際にゾーンに居た住民が移住すると、移住先で災害等が起こると統計学的に立証され、ストーカーの子ども等には遺伝的な変化が起こっているとされる。
・主人公であるストーカー「赤毛〈レッド〉」のレドリック=シュタルトの二十三歳から三十一歳までが描かれる。作中、ゾーンの侵入を密告され自ら警察へ出頭している。
・主人公は粗野でタフな存在として描かれている。
・主人公の娘はモンキーと呼ばれ、金髪の産毛に身体が包まれ、成長するに従い何も解さなくなり、医者から「人間では無い」と診断されている。
・全ての願いが叶うと言われる願望機「黄金の玉」が登場し、それを前にした主人公が「全ての人類の幸福」を望みながら物語は終わる。

  • アルカージイ&ボリス=ストルガツキイ著深見弾訳『願望機』

・ストーカーが科学者と作家をゾーンへ案内するという内容。
・ストーカーに粗野な言動が目立つ。また娘は目は見えず這って歩くという。科学者はこれをミュータントと呼び「ゾーンの犠牲者」だと語る。
・全ての願いが叶うと言われる願望機が登場する。しかし上記引用の通り、それは一筋縄ではいかないもののようだ。
・科学者が原子爆弾で願望機とゾーンを破壊しようとするもの、結局その場で爆弾を解体し、何もする事無くゾーンを後にする。

・ストーカーが科学者と作家をゾーンへ案内するという内容であり、ストルガツキー兄弟の「願望機」と物語の構造はほとんど変わらない。
・主人公のストーカーは静かなインテリ風の人物として描かれている。
・ストーカーの娘には足がない。しかし物語の終わりに超能力を披露する。
・願いが叶う部屋が登場する。作家によれば「人間の潜在意識を実現するもの」だと言い、「願望機」と同一の装置となっている。
・科学者が部屋を小型核爆弾で爆破しようとするが、ストーカーが「私にはそれしかない」と縋り付き止める。
・ストーカー、科学者、作家は願いが叶う部屋に入る事無く、その場を後にする。

願望機

願望機

ストーカー (ハヤカワ文庫 SF 504)

ストーカー (ハヤカワ文庫 SF 504)

ストーカー 【DVD】

ストーカー 【DVD】

万物理論

グレッグ=イーガン著山岸真訳『万物理論』を読んだ。
友人から無理やり渡されたSF作品の一つ。これくらい読んでSFを語れという事らしい。

人工島で催される世界を説明する原理「万物理論〈Theory of Everything〉」の発表とその界隈に出現する反動集団とカルト集団。その一方、世界に蔓延し始めた謎のウイルス。身体にカメラとハードディスクを埋め込んだジャーナリストがその渦中に巻き込まれるというのがかなり荒いあらすじとなる。本書について何か書こうと思い、ネットであらすじや感想を追ってみると、肝心の万物理論とは何たるかが全く判っていなかったらしい。人間原理を基調として、ある一人の人間が世界の数値を把握しコントロールする事によって世界が変わる。これはフィクションでは物語の終わりに急転直下でよく起きる事ではある。しかしそんな派手な事が起きるものなのだろうか。本書は邦題では万物理論となっているが、実際は謎のウイルスの方が題名になっており、万物理論だけで無く色々とアイデアが詰め込まれているので面白く読める。もっと下準備して読めば良かったかもしれない。

万物理論 (創元SF文庫)

万物理論 (創元SF文庫)

コロロギ岳から木星トロヤへ

小川一水著『コロロギ岳から木星トロヤへ』を読んだ。
時間SF作品でありライトな味わい、楽しく読んだ。第45回星雲賞受賞作品。

時間の泉―原初の一点から全方位に広がった無限の空白には原初の一点に向けて大小様々な楔が浮かんでいた。カイアクたちは自由に泳ぎ周り時間の泉で楽しく暮らしていた。しかしカイアクは流れが弱い楔の後ろで休んでいたところ、誤って楔に顔と尻尾を挟みこんでしまう。

太陽活動の異常により太陽系の日照量が激変した。太陽発電に頼っていた小惑星ヴェスタは深刻なエネルギー不足に陥り百二十万人が死に瀕した。ヴェスタ人は木星前方トロヤ群の小惑星アキレスに目をつける。アキレスは当初からエネルギー問題が認識されていた為、宇宙移民に先立ち間歇型核融合炉「小陽〈トップ〉」を建造、その周囲にワイヤーで括りつけた居住区が公転していた。ヴェスタ人はトロヤ人に移民の受け入れを迫り、交渉は途中で破綻。宇宙航空技術に優れ常備軍を備えたヴェスタ人に対してトロヤ人は戦闘艦アキレス号を建造、一矢報いようとするも敗北、トロヤ人はヴェスタ人の軍門に下った。
西暦2231年、アキレス号艦長の孫リュセージとその親友ワランキはヴェスタ軍人と諍いになった後、モニュメントとなった戦艦アキレス号内の立入禁止区域に侵入し閉じ込められてしまう。そこで見つけたのは宇宙風化した蠕動する巨大な物体だった。

西暦2014年、北アルプス嘶咽木〈コロロギ〉岳山頂観測所ドームに大穴が開く。観測所の越冬要員岳樺百葉〈たけかんば ももは〉と観測所長水沢潔は、穴の空いたドームで紫蘇漬けにした大根のような生物に遭遇する。生物は自らをカイアクと名乗り「尾の先は217年先の木星前方トロヤ軍にあって、おそらくそのそばに人間がいる。彼らに、私の尾を解放しろと伝えてくれ」とお願いする。

こうして岳樺百葉は、カイアク、そして217年先の戦艦の残留放射線に晒されたリュセージとワランキを救出させるべく行動を開始する。カイアクから少年二人が閉じ込められている事を知り腐女子的妄想を繰り広げたり、何より前途ある因果連鎖が繋がる過程は小気味良い。

コロロギ岳から木星トロヤへ (ハヤカワ文庫JA)

コロロギ岳から木星トロヤへ (ハヤカワ文庫JA)

2015年4月5日~2015年4月11日

朝から雨が降っている。肌寒い。朝食に冷蔵庫の放置していたソーセージと野菜のオーブン焼を温めて食べる。

丸山眞男の「現実」主義の陥穽を読み直す。今や既成事実とは戦後民主主義であり、それを改める為に「我々」が現実を拒否し始めている…民主主義は与えられ倣ったものにしか過ぎない。それ故に七十年で形骸化するのでは無いか。そんな考えが頭をよぎる。ではどうすれば良いのか。「今までこうだった」では説得力を持たない。「今選び且つ更新している」という具体的な経済活動でなければならない。

顔にできものが出来ている。不節制が祟ったのだろう。今思えば昨日は酒、リトアニア料理だというパイ生地包肉団子キビナイ、スナック菓子しか食べていない。

雨の中、色鮮やかなカッパを着た子どもたちを見掛ける。雨の中を母親と歩く事を喜んでいるのだろう。コンクリートに消えていく雨、長靴に弾かれ流れて行く雨、水溜まりに波紋を作る雨、そしてそこに長靴で飛び込めば水が音を立てて跳ね上がる。これほど素朴な面白さは無かったはずなのだ、なのに慣れ忘れてしまう。

スイーツ脳。上司が用意した甘味を貪っている。食べ過ぎて怒られる事もある。

リクルートスーツの女性が眺める本には「現金過不足」「当座預金」等といった言葉が並ぶ。金融機関に就職したのだろうか?髪を束ねたシュシュが地味なスーツ姿のアクセントになっている。

駅案内人の女性がどこぞかの国の警官を模倣した服装で大きな声を挙げている。

屍者の帝国について考えているはずがスイーツについて考えていた。友人曰く俺はスイーツ脳らしいのでそれが証明されるかたちになった。

結婚式の引出物として選んだステンレス製のマグカップが届く。ジョニーウォーカーのレッドラベルを買ってみたのでそれを注いで飲んでみる。辛味が口に残るような気がする。

仕事が無い。全く以て馬鹿らしい。

玉ねぎを切っていると猫の手で食材を押さえなかったばかりに指に包丁を入れてしまう。しかも火が通りきらなかった玉ねぎが苦い。これでは血液がサラサラになってしまう。

路地裏を歩いていると向かいから母親とその娘がやってくる。小学六年生位だろうか、こちらをじっと見つめて来る。知り合いではもちろん無い。仕方無く微笑んでみるも笑って返されるばかり。これでは保護者同伴にも関わらず小学生に不審な行動を取ったおじさんという声掛け事案になってしまう。

以前の職場の話題が上司や同僚から聞こえて来る。お前らに何が判ると腹立たしい気分だが、それ故にそれなりにも思い入れがあったらしい事に気がつく。

チェロの音が震え延びて行く。

どうやら職場で配置変更の話があるらしい。今回は俺では無く先輩社員が対象のようだが、おそらく先輩社員は配置変更をきっかけに転職活動がうまく行けば辞めてしまうだろう。するとたちまち俺が次の候補になる。そんな夢まで見てしまった。問題は配置変更の対象になった場合、それが良い事なのか悪い事なのか判断がつかないという事だ。

ソニーがクラシック作品を廉価版として今月から来月に掛け百作品再販するらしい。ヨーヨー=マのバッハチェロ無伴奏組曲を聴いてみようと思っている。

「仲間という言葉がロンギヌスの槍のように俺に突き刺さる。」という文章が垣間見えた。イエス、キリスト気取りか?

修羅の門 第弐門はあと二回の連載で終わるらしい。海堂との再戦が終幕とは知らなかった。海堂の技を四門を発動して避ける動きがおかしく、その後、技をくらってからの動きも小動物のようで滑稽である。しかし海堂は死ぬのだろうか?日本に於ける決闘の法律について調べてみたのだが、決闘罪に関する件というものがあり、適用事例は少なく無いらしい。

テーピングを巻いた左手中指の指紋無き滑らかさでテーブルをなぞって行く。太腿の上を、布の上を。

tumblerに水着の女性たちしか現れなくなってしまった。

煙草を吸いスマートフォンに連絡が届いた事を確認する。煙草の煙の中でファンデシーションを塗り直す。少し焦らしてみる。念入りに毛穴が無くなるまで。そして返信する。すぐさまスマートフォンが鳴動する。あと少し。髪を掻き上げる。整える。水を口に含む。もう少し待って。心と身体が整うまで。

アメリカン・スナイパーを観た。これを観てどう思うかと問われれば何かとても危ういところでの綱渡りの表現だなという印象を受ける。

終電間際の電車の酒臭さに閉口する。床に伸びた水。耳許で鳴るビアノソナタ。車内を照らすLED。どこにも隠れる場所は無い。途中下車して待つステンレス製のベンチの冷たさに身体を縮ませる。

眉毛の薄い女子高生が小物で彩った学生鞄から鏡を取り出し髪を整えた。

背広を着こなせていない若者三人の取り留めの無い会話が満員電車の車内に響く。「ネクタイの締め方が判らない。」等と言ってネクタイを仲間に締めて貰っている。これから入学式でもあるのだろう。

寒い夜だった。

質屋の広告を眺めている。義理チョコのお返しで腕に纏ったブランド製品買取価額六十六万…これはどういう階級の話だと考え、キャバクラのキャストと客のやり取りが想像される。偏見だろうか?

豆乳ウイスキー。

世界変革の時。これはTVゲームクロノ・トリガーの終盤戦のBGMのタイトルだが、知的想像なり発見で世界が変わる事があるだろうか?概して技術的なものは生活を変えるものの、その他で世の中は変わりそうに無い。しかしよくよく考えてみると資本主義、共産主義法治主義国家主義民族主義は人の行動を統制しているようにも思える。技術的なものは日常を否が応でも変える。その他は選択の問題という事なのか?それにしてもクロノ・トリガーの魔王は設定は良く出来ている。古代の魔術者の血を引き、事故により未来へワープ。中世に魔王として君臨しながら過去への復讐を誓っているのだ。

Instagramが開かない。

食事を終え布団の中で横になっている。遠くから車、近くではエアコンが音を立てている。これ以上の穏やかな時間は望めるとは思えない。そしてこの時間がずっと続けば良いと願った。概して安易な願いほど雑に叶うものである。その場から動けない。力の入れどころが身体から消えている。どうやら身体の腱が全て切れてしまっているらしい。気がつけば背中の感覚も無くなってしまっている。床擦れを意識の上では無くしてくれようという事らしい。気が利くものである。透かし天井を眺めながら瞬きをする。長い時間を掛け蛍光灯の光が消えた後、また明るさを取り戻して行く。間延びする思考の中で、時間が著しく遅延している事に気がつく。そして蛍光灯がチカチカと点滅を始めた。光まで遅くなり始めたのだろうか。瞬きが永遠に近づいて行く。動きは止まり冷たくなっていく。余白はどこにも見当たらず、閉じ込められてしまう。

最近の夜はすぐに眠りたくなる。

道中、ヤクルト女性営業員に声を掛けて商品を買っている男性を見掛ける。以前、まだ仕事を始めたばかりの頃、役所に資料取付の為に立ち寄った際、帰り掛けに同伴していた先輩社員がやはりヤクルトの女性営業員から飲物を買っていた。そんな買い方が出来る事も、仕事の仕方も知らなかった頃を思い出してしまった。

改札が閉ざされる。何度もカードをかざしたところでやっと開く。

ウイスキーが光を通じて黄金色になる。

久しぶりにサウナに入る。後から入って来た黒人の肌の内側の白さは判っている事なのに目が醒める。

AKB48が歌う缶コーヒーのサラリーマン応援歌より篠原涼子が適当な事やりながら言う仕事楽しんじゃえの方がまだマシだと考える。実際どっちでも構わないのかもしれないが。

羅生門を観る。京マチ子が美しい。

外から雨音が聞こえる。雨戸を閉めようとすると上階の住人と対面し「こんにちは」と言われる。一度怒鳴り込まれた人物に対しこの対応は賢しいというべきなのだろう。

ストーカー

アルカジイ&ボリス=ストルガツキー深見弾訳『ストーカー』を読んだ。

「この時間だと〈ボルジチ〉には客がいない。アーネストがカウンターの向こう側でグラスを磨いてはそれを明かりで透して仕上がり具合を調べている。ところで、これにはいつも呆れ返っているんだが、ここのバーテンたちはいつ来てもきまってグラスを磨いている―まるで、そうすることで魂が救われるとでも思っているみたいだ。そら、ああやって丸一日でも立っているに違いないーグラスを手にとり、目を細めて明りに透して見る、息を吐きかける、さあ、磨くぞ。磨いて磨いて磨きぬき、もう一度明りに透す、ただし今度は底からだ。そしてまた磨く……」
アルカジイ&ボリス=ストルガツキー深見弾訳『ストーカー』より。

本書はアンドレイ=タルコフスキー監督作品「ストーカー」の原作及びウクライナ製のPCゲーム『S.T.A.L.K.E.R』シリーズによって多くの人に知られている。原題は「路端のピクニック」だが、タルコフスキーの映画によって「ストーカー」という名称が親しまれた為、この邦題になったという*1。映画を観て以降、原作を読みたくて仕方無かったのだが既に品切れ、古本屋で買うか図書館で取り寄せるしか無く、そこまでする気力は無いと諦めていた。しかし深見弾の弟子である翻訳家大野典宏Twitterで重版をアナウンスしているのを見掛けた。僥倖とはこういう事を言うのだろう。その為、本書には特別な愛着がある。

地球とはくちょう座α星デネブを結ぶ線上。そこからピストルを撃ち込まれるかのように地球各所に未知が来訪した。しかし未知は地球人と接触する事無くその場を去り、後に残されたのは未知が現れた場所―六ケ所のゾーンだった。ゾーンには地球の常識や物理法則が通用しない。人類はゾーンの管理研究を進めるなか、未知の遺物を求め命掛けでゾーンに侵入する者たち、通称ストーカーが現れた。本書はストーカーの一人である「赤毛〈レッド〉」のレドリック=シュタルトを主人公にした連作集となる。
本書はストーカー同士の駆け引き等が描かれ、ハードボイルド的な味わいである。一方、映画と同じように「全ての願いが叶う遺物」が登場する。それを前にしたストーカーたちは、全ての人類の幸福という単純な絵空事を見出す。この絵空事しか見出だせないという事態こそ、人間の苦しさなのでは無いかと苦々しい気持ちになる。

本書を読んだ後、アルカジイ&ボリス=ストルガツキーが本書を映画脚本用に執筆した『願望機』を読んだ。

ストーカー (ハヤカワ文庫 SF 504)

ストーカー (ハヤカワ文庫 SF 504)

*1:翻訳者あとがきより。尚、本作を理解する上で深見弾は「路傍のキャンプ」の方が判りやすいと述べている。

屍者の帝国

伊藤計劃円城塔著『屍者の帝国』を読んだ。
急逝した伊藤計劃の作品を円城塔が引き継ぎ完成させたスチームパンクSF小説であり、シャーロック=ホームズ、フランケンシュタインカラマーゾフの兄弟風と共に去りぬ等のフィクションの登場人物や実在の人物が入り乱れるパスティーシュ小説でもある。

パスティーシュという言葉は貧弱な私の語彙から漏れている為に高級洋菓子を連想させる…
「洋菓子店「パスティーシュ」へようこそ。当店のパティシエは砂糖も小麦粉も一切使いません。なのでコレステロールも脂肪も気にする事の無い女性に優しいお菓子なのです。」南青山の路地裏で見つけた洋菓子店。店内に入る前にスマートフォンで検索してもお店の名前は出て来なかった。新しく出来たばかりのお店なのだろうか?私は訝しく思いながら店内に入った。お菓子はどこにも見当たらず、やたら細い身体つきの若い男性が笑顔をこちらに向けて先の挨拶をした。「砂糖も小麦粉も一切使わない」、大豆や米でも使っている健康志向がウリの店なのだろうか?果たしてそれは洋菓子と言えるのだろうか?「失礼ですがお客様は最近本をお読みになられましたか?もしくは過去にお読みなった本で印象に残っているものはございますか?」男性を笑みを絶やす事無く薄い唇を動かした。「本、ですか?」何をこの人は言っているのだろう。本を読むのが趣味なのだろうか?しかし初めて来た客に趣味の話をするのはどういう事だろう。そんなに暇なのだろうか?「そう、本でございます。当店のパティシエは砂糖も小麦粉も使いません。但し言葉と物語が必要になるのです。本で無くても構いません。印象の残った文章でも、音楽に載せられた歌詞のフレーズでも…全てはお客様がお望みのお菓子をつくるため、質問させて頂いたのです。」言葉でお菓子をつくる?何かの比喩だろうか?「…失礼致しました、お客様が疑問にお思いなのは判ります。しかし当店のパティシエは言葉の通り、物語と言葉でお菓子をつくるのです、実体を持つお菓子を。もちろん味もあります、カロリーもあります…たぶん。ただ砂糖も小麦粉も使わないのは本当です。」人を馬鹿にするのも大概にして欲しい。こんな店はさっさと出て行った方が良いに決まっている。そう思いつつ私はこの状況を楽しみつつあった。悪ふざけには乗ってやるのが性分、スマートフォンを取り出し、電子書籍を立ち上げる。読み途中のSF小説、急逝したSF作家の作品を芥川賞作家が引き継いで完成させたエンターテイメント小説だ。男性はスマートフォンのタッチパネルを眺めると「承知致しました。」と言い扉の奥に姿を消した。言葉と物語でつくられた実体を持つ形而上学的なお菓子…私は未だ見ぬお菓子を想像したが、それはなぜか苺の載ったショートケーキだった。確かに漫画で見掛けたショートケーキを私は一度も見た事が無い。似たようなショートケーキは見た事があった。しかしあの理想のショートケーキにはついぞ出会った事が無い。オーソドックスな苺の載ったショートケーキこそ形而上学的なものなのかもしれない。お菓子のアーキタイプ、お菓子のイデア…そんな下らない事を考えていると扉が開いた。男性は丁寧な手つきで皿をレジスターの横にある卓台の上に載せた。皿の上には茜色のマカロンが一つ、居住まいを正している。「お待たせ致しました、お客様。当店のパティシエがお客様の為にご用意させて頂いたマカロン「緋色の研究」でございます。」男性は自信に満ちた声でお菓子を紹介した。「糸は入っていないわよね?」と私は噴き出しながら尋ねてしまった。男性は相変わらず微笑みを絶やさずこう言った。「言葉と物語で出来ています故、不純物は一切入っておりません。」と。

とはいえどちらも二十一世紀を生きる我々には虚構内存在である事は変わりない。
友人に勧められて本を借りて読んだ手前どうこう言う気は無いのだが*1、「アフガニスタンの奥地にアレクセイ=カラマーゾフが屍者の王国をつくった。」等と「地獄の黙示録」もとい「闇の奥」の展開の後、大日本帝国を舞台にチャンバラが始まるのだから面白いったらありゃしない。「伊藤計劃が完成させた訳じゃないから読む気がしない。」「円城塔が書いているからどうせ難しい数式の話とか訳判らない事になるんでしょ?」と思っている人にこそさっさと読んで欲しいエンターテイメント作品になっている。

*1:無理矢理渡されたと言っても過言では無い。

『丸山眞男セレクション』『丸山眞男―リベラリストの肖像』

丸山眞男杉田敦編『丸山眞男セレクション』、苅部直著『丸山眞男リベラリストの肖像』を読んだ。
丸山眞男の著作を手に取ったのは『丸山眞男セレクション』に収められた「「現実」主義の陥穽」を読む為だった。しかし、その他に収められた論考「国民主義の「前期的」形成」「福沢諭吉の哲学―とくにその時事批判との関連」「超国家主義の論理と心理」「軍国支配者の精神形態」を興味深く読んだ。特に「超国家主義の論理と心理」「軍国支配者の精神形態」は夏頃に読んでいたため緊張感がある読書体験となった。

丸山眞男リベラリストの肖像』は丸山眞男について良く知らないという事もあり、参考書として手に取った。丸山眞男の人となりが良く判るものだった。尚、本書はサントリー学芸賞を受賞している。

ここでは「「現実」主義の陥穽」の要旨を追う。

  • 「現実」主義の陥穽

本論はサンフランシスコ講和条約締結前後に書かれたものであり、日本の再軍備化や憲法改正が叫ばれているなかでの論考のようである。
著者は日本人の現実の構造について三つの特徴を指摘する。

  • 現実の所与性

本来、現実は一面において与えられるものであると同時に、他面に日々造られて行くものである。しかし一般的な「現実」は、前者の与えられるものであるという面を指し、後者の日々造られるという面が無視されている。つまり、この国における現実は既成事実と等置される。既成事実=現実は所与性と過去性において捉えれ、「現実だから仕方がない」という諦観に転化する。戦前、様々な「現実」を前にファシズムに抗する力が削がれ、後の民主化は「敗戦の現実」の上にのみ止むなく肯定された。

社会的現実は錯雑し矛盾した様々な動向によって立体的に構成されている。この現実の多元的構造は「現実を直視する」立場から無視され、現実の一つの側面だけが強調する。戦前、自由主義・民主主義を唱え、英米との協調を説き、労働組合の産報化に反対し*1反戦運動を起こす、等の動向は非現実的であり、反国家的とされ、ファシズム化する方向性のみ現実的とされた。しかし日本が第二次世界大戦の敗戦によって「枢軸」的現実から「民主主義」的現実を受け入れたように、矛盾した動向によって現実は支えられている。またマス・メディアが多面的な現実の一面しか報道しない場合、局面の露わな転換が「突然変異」として受け止められる。しかし転換=現実は徐々に形成されたものであり、マス・メディアが故意・怠慢で十分に報道しなかった事が原因となる。「現実的を直視する」と言った場合、人は既に現実の内のある面を望ましいと考え、他の面を望ましくないと考える価値判断に立って「現実」の一面を選択している。

  • その時々の支配権力が選択する現実

その時々の支配権力が選択する方向性が、すぐれて「現実的」と考えられ、これに対する反対派の選択する方向性は「観念的」「非現実的」というレッテルが貼られがちである。これは日本人の間に根強く巣食った事大主義・権威主義が原因となっている。民衆が権力をコントロールする程度が弱い場合、権力者が望む方向性を他の動向を圧倒して唯一の「現実」までに高める可能性が高い。これは民主政治が世界的に政治権力に対する民衆の統制を弱体化させる傾向性から普遍的な事象である。日本の場合、昔から長いものには巻かれてきた経緯から、支配層的現実即ち現実一般とみなされる素地が多い。西欧の再軍備問題では政府の動向と民衆が異なった方向性を示しているが、対ソ連におけるアメリカ的政府を背後に政府が遂行しようとする政策が有力に見えるようになっている。しかし民衆の動向は組織化されておらず、その動きがマス・メディアの主流とはなりにくい。とはいえ現実を動かすのが民衆である事は歴史の常識である。これら「太く短い」現実=支配権力が選択する現実及び「細く長い」現実=民衆が選択する現実、どちらかを相対的に重視するかという選択が最後に現れる。

著者は無批判の「現実」観は上記で指摘した特殊なものであるとし、既成事実を拒絶する事によって私達が選択する現実をより推進し有力にさせると語る。一方、事態の急激な進展により昨日まで選択の問題だったものが既成事実となる場合、過去の選択の問題に拘泥し、将来の可能性ある問題への発言力を低下させる事に警戒する必要があるという。また、新しい問題に気を取られ基本的な立場を移動させる事は、問題提出の主導権を支配権力側に握られる事になるともいう。そこで著者は既成事実となる前の選択の問題は明白な解答をつけられるものでは元来無く、問題自体が表面化していくなかで以前の争点を新しい局面のなかで具体化する必要を説く。また著者は、知識人が自分の意に沿わない現実に進展した場合、既成事実と自分の立場の緊張感に堪えられず、既成事実を合理化する理屈で自分の立場が発展したと考え、自己欺瞞で以て現実に屈服する事を危惧する。
本書はこれらを述べた後、再軍備化、文民統制、冷戦等の具体的な問題について論じて行く。

丸山眞男セレクション (平凡社ライブラリー ま 18-1)

丸山眞男セレクション (平凡社ライブラリー ま 18-1)

丸山眞男―リベラリストの肖像 (岩波新書)

丸山眞男―リベラリストの肖像 (岩波新書)

2015年3月28日~2015年4月4日

俺にとってはただの三百六十五日の一日だとしても、誰かにとっては大切な一日なのかもしれないと考えると、多少は一日が色を帯びてくるような気がしないでもない。

朝食を駅構内で済ましている人をよく見掛ける。比率的には女性が多い。おそらく朝時間が無いのである。そしてこの時期、早起きは難儀である。大抵の時期難儀である。

半袖のポロシャツを着た太ったおしゃれな男性を見掛ける。比率的に半袖の上着を着ているのは白人の男性が多い。もう春が来たのだなぁと思う。そしてこの時期、大抵の太った男性は半袖の上着を羽織る。

甲子園の土を棚に飾って置いていたのだが、それを知らない孫が間抜けな面で猫の砂に入れてしまったので、息子とその奥さんと孫を妻の遺影の前で小一時間叱りつけた。すると息子は「もう介護などしてやらん。」と頼んでもいない事を言って奥さんと孫と猫を連れて出て行った。私は誰も居なくなった家の静けさに耳を澄ましながら、猫の糞と小便に塗れた甲子園の土をボトルに詰めた。臭さと静けさに堪えらなくなり作業を止め、テレビを点けると、最近とんと見た事が無かった砂嵐が映し出された。

童顔巨乳のグラビアアイドル篠崎愛が歌手としてデビューしたのものの、ブレイクする様子は無く、もっぱらTwitterで食べたものの写真にアップするのが喜ばれている。それに苦笑いを浮かべる事務所社長を叱責したのは篠崎愛のマネージャーだった。こんな事では大切な時間が無駄に消費されるだけだ。ただでさえグラビアアイドルは資本主義の鬼子であり消費されるスパンが著しく早い。篠崎は独自の地位を得たように思えるが、それもまたいつ失われるが判らない。彼女の歌唱力には全く問題無い。しかしそこにキャズムを越えるクリティカルさは無い。今のうちに彼女の独自の立場を築いてやらなければ…マネージャーはハンドルを握りながら、ルームミラーに視線を写す。篠崎はスマートフォンに夢中でこちらの視線には気がつかない…等と妄想していたのだが、ソロデビューはこれかららしく、CDジャケット等も手が込んでおり、意外と良い結果になるかもしれないと思った。

ポテトサラダをつくるべく耐熱ポールに男爵芋と玉ねぎと挽肉を入れた後、余っていたトマトを刻んでいるとまな板が傾き、耐熱ボールがシンクに落ちた。耐熱ボールから溢れた目算五十グラムの挽肉が生ゴミに分別される瞬間だった。仕方無く表面から肉を掬い耐熱ボールに入れ、シンクに落ちた挽肉を、これも生肉故に真紅だなと親父ギャグを思いついたのはつい先程だが、排水ネットに集め捨てる。はたから見れば良い大人がいそいそと台所で作業しているのは滑稽だろう。

春に着る服が無い。

吊革広告の交換作業を行う男性の決まりきった動き。四月に向けてまた広告が差し替えられて行く。

Art Blakey & The Jazz Messengers の A Night in Tunisia の奏でるリズムに痺れている。チュニジアがどこにあるかも、外国で夜を過ごした事もないのに。

チュニジア。アフリカ大陸の北に位置しアルジェリアリビアに挟まれ、地中海を挟んで北にフランスとイタリアがある。旧宗主国はフランス。

まだ幼さを残す男女が優先席でじゃれあっている。服装は二人共黒づくめで、その場に沈殿していく溶けきれない砂糖のようでもある。

アパホテルの広告に社長の写真が掲載されている。以前アパホテルの社長に心酔する女性が部屋にアパホテルの社長のポスターを張り巡らせていた。あのアパホテルの社長の平面的な顔に浮かぶ細い目、色鮮やかな帽子、どれを取っても初見では人を警戒させるだけである。またわざわざ広告に自らの肖像を載せようという意図が本人にあるとしたら、自己顕示欲が強過ぎる。

待合室でぼんやりしている。仕方無く音楽を聴きスマートフォンSNSを眺めたり本を読んだりしている。待つという事は、自分の時間を他人の為に犠牲にしている事に他ならないはずなのだが。

やはり待ち時間の間、渡された書類に、講習済印に、血が乾いている事に気がつく。今時、血判なんて珍しいと思いつつ、指先に血が固まっているのを確認する。ティッシュで拭き取る必要も無い程度に血が固まった指先に大人気の無さを感じる。

講習は外国人がいるという事で英語字幕版を眺める事になる。単純な俺はビデオを観ながら運転には気をつけようと心から思い、建物を出ると雨が降り始め、洗濯物を外に出すべきでは無かったと後悔していた。

Nik Bärtsch's Ronin の 作品を購入しようと思ったが見つける事が出来なかった。

ポテトサラダをつくるべく耐熱ポールに男爵芋と玉ねぎと挽肉を入れた後、無添加のトマトジュースを流し込み、電子レンジに入れる。赤ワインでも入れれば良かっただろうか等と思案している。はたから見れば良い大人が暇を持て余しているようにしか見えないだろう。実際、その通りなのだが。

アパートの保険契約が切れている事に気がついた。契約満了は知っていたものの、契約更新書類が届いていない。契約満了日は三月二十七日となっている。別段、家財の保険はどうでも良く、賠償責任保険が重要で、加入していなければ丸腰も良いところ、訴訟社会となった日本では身包みを剥がされてしまう。個人賠償責任保険は示談代行が無ければ使い物にならない事を鑑みると、自動的に少額短期保険は遠慮したい。地震保険については話が長くなるので簡単にまとめると、余程の家財が無ければ通常賃貸借契約に於いて必要無い。そもそも地震保険地震の損害に対する支払いでは無く「被災者の生活の安定に寄与」という扱いである事に留意されたい。それにしても保険料が随分安くなる事が見込め、今までの支払いが馬鹿らしく思える。

流れる大量の茹で揚げ上がった大量のスパゲティー。

四月の統一地方選挙に向けて、駅前で炎上議員が声を枯らしている。やはり落選の可能性が高いという見込みが立っているのだろうか。家族の絆が云々と言うが、この自民党議員の家族とはどのようなものだろうと思う。

ミッキーマウスのパーカーを着た腹の突き出た中年男性。

rabittoo のミニマリズムが心地良い。この反復に身を任せたい。

公園の樹木は皆開花して意気揚々としているかのように見える。その様子にこちらは冷めていくばかりである。

東京駅は春休みの為か旅行客で賑わいを見せているかのように見えた。しかし実際は旅行客に偽装した各国のエージェントに他ならない…CIA、KGBモサド、MI6、内閣情報調査室、インターポール…松尾芭蕉、サー=フランシス=ウォルシンガム、正力松太郎、ゾルゲ、李香蘭、岸信助…脚のやたら太い女性がベンチに腰掛ける。鞄を膝の上に載せ少し体に鞄を引きつけると膝小僧が露わになり、膝小僧が開く。始まるカウントダウン。皆覚悟を決め膝小僧を凝視する。開口された膝小僧に青筋が立っている。女性は過去、砂利道で転倒し膝を強かに引き摺った経験があり傷跡が青く残ってしまったのだ。過激派はそんな事も知らず彼女の膝小僧に改造を施し、膝の傷を隠す整形手術も施す慈悲の心も持たない。自爆テロから魔改造まで…言語道断、テロリスト許すまじ。

陽のもとは暖かいものの、首元を通る風は冷たい。

青空を覆う数多の戦闘機。遂に石原莞爾が予言した世界最終戦が始まる。しかし皆思いの外喜んでいる顔つき。戦争がしたくてたまらないという様子。その辺の犬まで戦争したいとキャンキャン吠えている。そう思って後ろを振り向くと痴呆症の爺さんが犬の首をリードで締め上げると同時に尿漏れしていた。緊張と弛緩に襲われた爺さんは恍惚の表情を浮かべリードで犬の首を引きちぎる。どんどん尿漏れする。終いには脱糞まで始めた。糞もどんどん出る。挙句の果てに内蔵まで飛び出てくる。周囲に悪臭が漂い始めた。鼻を塞いでいそいそと横を通り過ぎていく人々。皆白けてしまったのだ。

同僚の担当する業務の補助のために久しぶりに外出する。昼間の電車は物憂げで良い。

満員電車の駅での乗り入れの際、後ろからしたたか押されバランスを崩す。体格の良い男性でこちらに頭を下げるフリさえしない。どうすればこの男を合法的にぶん殴る事が出来るのか思案してみた。そして平時に於いて男の頭をぶん殴るのが合法になるのは、かなり希少な瞬間であろうと思われた。意外と勢いでどうにかなるかもしれない。「やってみたらいかがですか?」横から口を出したの我が偉大なる次世代脳内インターフェイス「HANAKO YAMADA」。何でも二十世紀の極東で一般的かつ模範的な少女の名前が由来らしい。既に我々には脳内インターフェイスが不可欠だ。何世紀も前、情報がまだ天文学的な数字だった頃、分散型ネットワークから情報を抽出すれば事足りていた。しかし天文学的数字量子力学的な位相に展開した時、脳とネットを当たり前のように繋いだ人々は、ネットの中に意識を埋めて一人も還らなかった、ネットのパイドパイパー…そこで開発されたのが脳内インターフェイス。脳を直接ネットに繋いで自分を見失うならば、脳内の擬似人格に行わせ、選んだ情報の最適解をナビゲートさせるという簡単な理屈だ。だけどこれを完成させるまでの間に数多の人々が情報の海に姿を消していった。悲しい話だ。さて脳内インターフェイスの話を長くし過ぎた。シミュレートした最適な殴り方を三次元映像でサブリミナル・ラーンし終えた今、やる事は一つしか無い。

車窓から空が暗くなり夜を迎えようとしている様を眺める。

子どもが声を挙げて笑う。

音響兵器「エリコの笛」で城壁は崩れない。

何かに急き立てられる夢を観た。

高校の時の部活動の夢を観た。ただ珍しいのは二学年上の女性の先輩の現在の様子が映し出された事だった。どこかの駅で満員電車に子どもを抱っこした先輩を見掛け、その姿に驚く俺に「あー、子ども出来たんだ。」と語る。もう一方の先輩は同じ職場の同僚と現れ沖縄の民芸品や食材を売る店で働いているという。二人共、それぞれに綺麗になっていて俺はとても魅力を感じるのだが、夢から醒めた後、たかだか一年や二年の歳の差が意味を持つ事があったのだなと微笑ましく思い、そしてその二人では無く、別の女性ーそれは誰だか判らないーについて考えている自分に気がついた。

指先のささくれから血が止まらない。巻いた絆創膏の異物感。ごぼうのささがき。

マフラーはもう要らない。

Nik Bärtsch's Ronin の意味深な音色に頭を冷やす。

反復とその乱れは日常に於ける感情と相通じる。

花屋が大量の花を持って歩いている。人事異動の為に用意されたものだろう。用意された異動は心積もりも出来るというもの。聞けば客先は最後にスピーチをすると言う。最後の挨拶をした事を思い起こしてみる。つまらない言葉しか出なかったのは、仕事を辞める為の挨拶だったからだろうか。

曇り空。雨粒が時折顔に触れる。

新年度を迎えた客先が慌ただしい。事務所で人事の報告があり、一人別の場所で業務にあたる同僚に報告のメールを送る。

トーマス=トウェイツのゼロからトースターを作ってみたを読み終える。訳者の村井理子のTwitterが面白く興味を持ったのだが、原材料からトースターを作ろうという冗談みたいな試みがウィットに富んだ言葉で綴られる。それほど分量が少ないにも関わらず読み応えがあった。

終業から一仕事始まるのだから、もう仕事として回っているとは言い難い。

ロイドメガネの男性と小さな女性が微笑み合っている。雨に濡れたレンズで視界が眩しい。

結局、何かが欠如しているのでは無いか。空から糞が落ちベチャっと音を立てる。見上げるとカラス。バサッと飛び立つ。

寺田寅彦映画芸術という小論を読んだ。3Dやアニメに関する言及があり、その洞察も現状の映画の核心を言い得ているのだから感心するしかない。

玄関を開けると桜の花びらが路面に散っている。

客先で待たされる。仕方無く同僚としりとりをする。短い単語で切り返していると「刻んできますね。」と言う。何が刻むのだと思いながら笑って返す。まだ待たされる。仕方無く五秒以内に回答しなければならないとルールを追加する。目の前で新任の男性担当者に「名刺を持った?」と声を掛け共に出て行く総合職の女性担当者。新年度の忙しさを傍から眺めながら時計を確認する。今日も下請稼業に精が出るというものである。

コタツで早朝目覚める。さすがにコタツを片付けようと思う。

終業から一仕事始まるのだからやってられない。明日に残せば良いのにと思いながらディスプレイに向かう。

咳をして下を向くとエナメル質の革靴がてらてらと輝いている。

ラーメン屋に入り席に座る。スマートフォンを眺めていると店員から別の席に移るよう言われ、コップと鞄を持って移動する。その席に座った若い男性二人は大きな声で会話を始める。「入学祝いで四十万円貰った奴がいるんです。」「マジでっ?」「それでバイク買うんだそうです。」「マジかよ。」「バイク良いっすよね。なんかビッグスクーター買うみたいですけど、どうなんですかね。」「正直街乗りならスクーターでいいね。スポーツタイプだと荷物載せる場所ねえよ。」「そうですか。」なぜそんな大きな声で話さなければならないのか?届いたラーメンはいつもより味が濃いような気がする。

曇り空と風。どこからか桜の花びらが飛んで来る。

乗った車両では座席に寝入った男がいる。運転手が見廻りでこれに気がつき律儀に駅員を呼ぶ。駅員が一人ようやく到着。それでも運転手はそれを見守る。駅員二名で対応するルールでもあるのだろう。ようやく別改札側から現れた駅員が到着。やっと運転手がその場を離れる。駅員から起こされた男は寝起きの横柄な態度、赤いジャケットと白い帽子はゴルフ場にいる派手な爺さんそのもの、傾きたいなら納得だが、ああはなりたくないと思わせる。

渋谷を訪れる。外国人観光客が多いと感じる。スクランブル交差点で何やら撮影する外国人女性とそれを気にすることなく思い思いに散って行く人々。目的地を目指す途中、ホテル街に入り冗談みたいなホテル名に舌打ちしてみる。良い歳をした男女が弛緩した表情を浮かべ、眼鏡越しにそれを眺める。ビジネスバッグが重い。品川ナンバーの高級車が坂を登って行く。

映画の座席に座り始まりを待つ。座席に腰を沈めていると若い男性の会話が聞こえる。「適当に買って観たらすごく出来が良くて。」「箱庭感があるですよ。それを再現しているのでフィールドの壁にぶつかっているという演出があるんです。」予告でヴィゴ=モーテンセン製作主演の映画が面白そうだと思った。

神々のたそがれを観る。全く内容を理解出来ない上にこちらが不感症になったのかと思わせる程度に緊張感も無く鼻から血を吹き出し、四肢が切断され、内臓が皮膚から溢れ落ちて行く。もちろん、そういうものを観に来たつもりではあったのだが…主人公が吹く笛が唯一情感を示す。

鳩が飛び立つその瞬間、両翼が大きく開いた。取るに足らないと思われた鳩でさえ美しい。

神々のたそがれのパンフレットを読み映画の内容を補う事が出来た。原作と映画の内容を比較した遠山純生の解説が面白い。尚、パンフレットは中原昌也Hair Stylistics名義で映画音源をリミックスしたものが付いた限定版を買っており、こちらも聴き応えがある。

コタツを片付ける。部屋に物が無くなりすっきりした。しかし天気が悪く敷布団や掛布団は別の機会に洗って干さなければならない。全ては一度に片付かない。

座席に座る為にリュックサックを降ろす利発的な小さな女の子。それを助ける父親。何とも言えない顔でそれを見つめる年長の男の子。男の子は女の子に嫉妬しているのだろうか?しかしそんな嫉妬は小さなもので、子ども二人を養えるだけの家庭で生まれた事が羨まれる世の中だ。

仕事からの帰り道、友人から連絡が入っている事に気がつく。連絡してみると要領を得ない。どうやら花見の席で酔いがまわっているらしい。毎年花見をしていたのだが今回は辞退していた。どうやら最後のお誘いらしい。更に電話を代わった友人が長々と話し始め、遅くなるが参加すると伝える。上野まではそれなりに時間が掛かる。しかしこんな寒い日によくやると思う。

DURASとアドアーズの大きな紙袋を持った女性がスマートフォンとメモ帳を操る。その様を眺めるナイロンパーカーを羽織った中年女性。

隣に座ったパーカーを羽織った若い男性が眺めるのは子どもの虐待について書かれた中国語の記事。痛ましい写真が並ぶ。

上野で大学の同級生たちと合流する。友人に長々と説教をされる。こちらに落度があるものだから申し訳無いと思う。今回来れなかった同級生は大学時代から付き合っていた彼女と結婚して奥様は妊娠三ヶ月だと言う。皆それなりに楽しくやっているようで何よりだと思う。同級生の一人の彼女はリトアニア人。蜂蜜で醸造されたというリトアニアの酒を頂く。これが頗る甘く美味い。そしてワイナリーで働く友人が持ち込んだワインもあるのだから何も言う事がない。贅沢なひとときだと思う。

家に帰ると畳の上に桜の花びらが落ちている。春は短いと思う。

『るろうに剣心 京都大火編』

大友啓史監督作品『るろうに剣心 京都大火編』を観た。
『るろうに剣心』実写版の続編。志々雄真実内乱を描いた二部作の前編。相変わらずドラマ部分には閉口しきりだが、やはりアクションシーンは格好良い。
冒頭、斎藤一が志々雄真実と出会うシーンから始まり、大久保利通暗殺、緋村剣心の神谷薫との別れ、巻町操の登場、新月村にて志々雄真実と邂逅、折れた逆刃刀探しに伴う十本刀張との対決、京都炎上、戦艦煉獄の登場とほぼ原作の内容を踏襲しているもののの、剣心を狙う四乃森蒼紫が東京に現れたりしている。
新月村での剣心の大立ち回りは逆刃刀で叩くという動きを取っていて感心させられた。尚、ここでは尖角の登場無し。再現度高い神木隆之介の瀬田宗次郎との対決も良い。土屋太鳳演じる巻町操は原作通り怒りの怪鳥蹴りがあるのでとても満足。この映画で良かったのは土屋太鳳だと思う。但し、後編での巻町操は役柄上叫んでいるだけで良い所無し。意外なのは十本刀張との対決がきっちり描かれている事だが、その他の十本刀は瀬田宗次郎以外は雑魚扱いという形になっている。あと左之助は二重の極みを習得しないので身体が頑丈な人という扱いに収まっている。あと京都炎上の際、剣心を罠にハメようと志々雄真実の格好をした複数の敵との戦闘シーンがあり、これには失笑を禁じ得なかった。
志々雄に捕らわれた神谷薫を取り戻すべく剣心が戦艦煉獄に登場。海に落とされた薫を追い掛けるが、甲斐なく海辺で倒れているところを福山雅治演じる比古清十郎に助けられ本作は終わる。もうこの辺りで色々筋が悪いのは明らかだが、アクションシーン観たさに続編も観賞した次第である。