クリュセの魚

東浩紀著『クリュセの魚』を読んだ。
友人から渡された一冊。既に本書は友人に返している。

2400年代の火星、地球と火星はワームホールの発見によってその平穏な関係が変わりつつあった。火星に住む少年葦船彰人がある年上の少女大島麻理沙と出会い恋に落ちる。その後、複数回の逢瀬を重ね、大島は葦船の子どもを産み、自爆テロを地球圏で敢行、帰らぬ人となる。大島は中国共同体に支配され消えた日本皇族の末裔だったのだ。残された子どもを彼女の支援者である男性から受け取り火星で赤ん坊を育てる葦船。その後、ネット上で絶大な人気を誇るアイドルとなった少女はコミケ会場となっている皇居跡地で自らが皇族の末裔である事を発表しようと画策する…。

東浩紀SF小説を読むのは「クォンタム・ファミリーズ」以来だが、それよりは判りやすいものとなっており、各種ガジェット等も細かく描写され面白かった。意外だったのは小説という形ではあれ、天皇家を題材にしている事である。余りこの点を言及しているものを見掛け無かったのは、思想家としてでは無く小説家の作品として発表されている為だろうか。ここで描かれる天皇家の末裔大島は意外にもとても保守的な行動を取る。まず大島は日本人の末裔である葦船との子どもを残す事になるが、葦船に子どもを渡した支援者の外国人とも関係を持っており「結局彼女は血を優先した。」と悪態を吐かれている。女系天皇容認論が議論されていた時、これを容認した場合、青い目をした男性が皇族になる事が許されるのかと言った意見が目にした事があったが、そういったものは意外にも自主的に守られているようである。蛇足だが女系天皇容認論の反対意見に遺伝子による説明をしているものを見掛ける事があるが、万世一系を信じているのならば伝統を守るべきだという論理性は除外した立ち位置を取るべきだと思う。
さて天皇の末裔である為に、国が亡くなったにも関わらず自爆テロを敢行させる決心をさせ、またその血の為に歴史の表舞台に少女が立とうするのはどのように考えるべきだろうか。天皇制は過去日本国民に強制力を働かせるものであった。しかし象徴天皇制によって皇族たちに強制力を働かせるものになり、形だけであれ政治性は排除されている。とは言え皇族の発言は政治性を自ら排除しているため曖昧ではあるものの、それを受け取った人々はまた自ら政治性を補完して受け取る構造になっている。そして政治性を補完した意見が都合良く利用されているのが現状である。さて少し話が逸れてしまったが、現状の象徴天皇制の場合、国民は皇族に自主的な強制力を働かせる。逆説的に強制力が働いていると認識する事によって象徴天皇制は維持されている。本書に於ける少女たちの決意と行動は、現在の皇族と国民との関係の強制力だと考えられる。つまりこの強制力によって国民は皇族に行動を迫り、また死地に追いやる可能性があり、そしてそんな事は誰も望んでいないと思うのだがどうだろう。