波が風を消す

アルカジー&ボリス=ストルガツキー著、深見弾訳『波が風を消す』を読んだ。

マクシム=カンメラーが活躍する三部作の第三作目であり、異文明接触委員会が登場するNoon Universe〈未来年代記〉シリーズの一つでもある。『世界終末十億年前』の訳者による長中編の作品リストによれば、Noon Universe〈未来年代記〉シリーズは本書が最終巻となる。しかしストルガツキー兄弟は発表した作品を再構成する作家であり、短編が含まれていない事や、執筆順であるかどうかは判らない事から、はっきりとした事は言えない。
さて本書は三部作の主人公であるマクシムの回想録という体裁を取っており、その為だったのだろうか、一読した際に作品全体を把握出来ず、逐次再読を要しまとめるのに手間が掛かってしまった。

  • 八十九歳になったマクシム=カンメラーはマイヤ=グルーモワから「世紀の人物伝、五人の生涯」の執筆者が誰なのか突き止めて欲しいと依頼を受ける。この本にはマイヤ=グルーモワの息子であり、マクシムが監視委員会異常事件部部長だった時代の部下であるトイヴォ=グルーモフに関して書かれているのだ。マクシムは執筆者が宙史研こと宇宙史研究所の〈類人類〉班に所属する職員である事を突き止めたものの、執筆者まで名前が判らなかったという。そしてこの本を読んだマクシムはトイヴォに関する誤解を解くべく回想録を発表するに至る。
  • マイヤ=グルーモワは前作「蟻塚の中のかぶと虫」で失踪した進歩官〈プログレッサー〉レフ=アバルキンの元恋人である。トイヴォとレフ=アバルキンには血縁関係は無いようで、本作でトイヴォは「父とはほとんど会っていません。」「たぶんいまは異種交配の仕事をしていると思います。ヤイールで」と答えている。更に前作の結末でルドルフ=シコルスキーがレフ=アバルキンを殺害した悲劇は「非難がましいニュアンスのこもった」〈シコルスキー・シンドローム〉なる専門用語を生んだ。これは〈遍歴者〉が地球に干渉している可能性を気にする〈遍歴者〉コンプレックスとは真逆に、〈遍歴者〉の介入を無視する態度を指すらしい。
  • 本書によれば人類が〈遍歴者〉を認識したのは、二世紀前に火星で見捨てられた地底の琥珀都市を発見してからだという。また前作との繋がりで言えば、ビッグ・ヘッド人は地球での駐留を止めて出て行ってしまった。そして石棺で見つかった十三個の受精卵の最後の一人は自己破壊に等しい自殺に至った。
  • 自由調査団が発見したEH63061系にある惑星チッサ。この惑星を訪れた学術調査隊員三名は原因不明の精神錯乱に陥ってしまう。三人は、中央基地との連絡が途絶え、軌道を飛ぶ母船としか交信出来なくなったと感じてしまう。更に母船にいるロボットは、宇宙規模の破局が起こって地球が滅亡し、地球周辺星域の全住民も原因不明の伝染病に罹り死に絶えたと繰り返し伝えたのだった。隊員のうちの二人は自殺を試みる為に荒野に向かった。しかし隊長はただ生き抜こうとした。そして精神錯乱状態に陥って十四日目、隊長の前に白い衣装をまとった男が現れ、実験の第一段階をパスし〈遍歴者〉の仲間入りができる候補者になったと告げる。十五日目に母船の救命ボートに救出された三人は正常な精神状態に戻り、後遺症は残らなかった。彼らの証言は細部に至るまで完全に一致していたが、深層心理分析の結果、それは彼らの主観的な感覚である事が突き止められ、潜在意識の最深部では全てが単なる演技に過ぎないと思っていたのだった。
  • 同僚たちがこの事件を平凡な異常として扱うなか、マクシムは調査に乗り出した。まず地球人類の中で進歩官〈プログレッサー〉として活動している〈遍歴者〉のモデルを作ろうとした。専門家たちの大半は〈シコルスキー・シンドローム〉の為に断ったが、前作でシコルスキーと舌戦ないし唯の口喧嘩をしていた自由主義者最左翼アイザック=ブロンベルグは後に「ブロンベルグのメモランダム」と呼ばれる回答をマクシムに送ってよこした。
  • ブロンベルグは〈遍歴者〉の性質と地球文明との必然的な遭遇に関する研究を続けており「モノコスモス」なる概念を提示する。どんな知性も個体を維持するのに可能な限界ぎりぎりまで、友誼・相互関係を保つ高度な文化・利他思想・到達しうるものに対する軽視、という連合状態に至る。これは生物学的・社会的な法則の為である。その後の知性の可能性は二つに分けられる。一つは停滞・自己満足・自閉・外界に対する興味の喪失。もう一つは進歩の第二段階として計画してコントロールされた「モノコスモス」への進化である。「モノコスモス」は無数の新たな知覚を手に入れ宇宙を認識し自らが〈遍歴者〉と同じように創造者となる道である。人類が〈遍歴者〉の干渉を受けるのは、他の文明と違い行動し発展の方向を選択し誤る可能性を持っているからであり、新たな社会構造を準備させる事によってグローバルな知性体への発達を促し、最終的に充分に成熟した個体をモノコスモスに統合させるべく選別を行うのだという。つまり「モノコスモス」になる事は人類が〈遍歴者〉になる事だが、全ての人類がその変化に適しているとは限らず、人類は人類が知らないパラメータに従い超文明によって二つに分離し、一方の少数部分が多数を凌駕する人類とは別のもの―〈遍歴者〉=「モノコスモス」になるのだという。
  • ブロンベルグはこの回答をマクシムに送った後、急死してしまう。「モノコスモス」の研究資料はもちろんのこと〈遍歴者〉に関する資料も残されていなかった。
  • ブロンベルグの回答と急死を知ったトイヴォ=グルーモフはその死に疑念を持ちながらも彼のアイディアを検討する気が無いのかマクシムに問いただす。マクシムはトイヴォに調査を命じる。
  • トイヴォ=グルーモフは進歩官〈プログレッサー〉として三年程働いた後、その職を投げ出してコムコン-2へやってきた。トイヴォはプログレッサーの使命という考えに敵意を感じており、彼を不安にしているのは、「どんな神であろうと、われわれの仕事に干渉することは許されないし、神が地球でできることはなにもない、なぜなら“神の恩恵とは、つまり風のようなものだ。風を帆をはらませもするが、嵐も起こせるからだ”という事だった。」尚、トイヴォが進歩官〈プログレッサー〉として働いた場所は惑星ギガンダ、また「ぼくが剣を振りまわして、アルカナール広場の舗石の上で足踏みしているあいだに~」という発言から「神さまはつらい」の舞台であるアルカナール王国だったようだ。
  • トイヴォはブロンベルグのアイディアを元に集団恐怖症に関する調査を始める。
  • 〈ペンギン・シンドローム〉は宇宙恐怖症の一つであり危険な精神病では無い。患者はまどろみ始めると、たった一人無力な状態で全ての事を忘れ冷酷な克復し難い力に支配され空気の無い空間に浮かんでいる自分を発見し、呼吸困難、破壊光線に体を貫かれる、骨が溶ける、脳が沸騰して蒸発する等の前代未聞の強烈な絶望感に襲われ、目を覚ます。これは外来の治療で治す事が出来るため危険は無かったが、性別・年齢・職業・遺伝子に関係無く発症する新しい現象だった。メビウス博士は〈ファントム-17-ペンギン〉タイプの宇宙船で遠距離宇宙旅行した者が発症している事を突き止める。しかし宇宙船に設計上のミスは無く、次善の策として危険を避けるべくオートパイロット用の宇宙船に改造されてしまった。トイヴォは調査の結果、宇宙船には問題無く、侵入座標41/02の亜空間を路線としており、パイロットたちの記録から、ペンギン・シンドロームに対して三分の二の者は免疫力を持ち、免疫力の無い者が同航路で発症していた事を突き止める。また〈ペンギン・シンドローム〉の倒錯現象-肯定的な夢を見る者もいるという。
  • マクシムがトイヴォの〈ペンギン・シンドローム〉に関する報告書を読み終えた頃、惑星サラクシのミュータントであるシャーマンが地球の超能力研究所を訪れる。シャーマンは他人の精神を支配出来る能力を持つサイコクラートだった。しかし滞在期間四日の予定していたにも関わらず一時間で地球から引き上げてしまう。
  • サイコクラートについて補足しておくと本シリーズで登場したビッグ・ヘッド人もミュータントであり他人の精神を支配出来る能力を持っている。
  • バイオブロックは東京方式の処置方法であり地球及び周辺星域で組織的に採用されている。バイオブロックはジャーナリズムで用いられる用語であり、医者たちはこの処置法に最初に理論的根拠を与え、実地に応用した深見ナターリヤと深見星子姉妹にちなんでフカミゼーション(深見式処置法)と読んでいる。フカミゼーションの目的は、人体が外界の諸条件に適応する自然の水準を高める事にある。古典的な処置方式では、母親の胎内で成長する最終段階で胎児にフカミゼーションが施される。血清をいくつかの手順をへて投与すると伝染病や毒物に対する抵抗力を増やし、マイクロウエーブを照射して視床下部の抑制を解除してやり、放射能・有害ガス・高温といった外部環境の物理的要因に順応する能力が高め、損傷した内部臓器を再生させ、知覚出来る網膜のスペクトル幅を広げ、精神療法の能力を高める事が出来た。フカミゼーションは強制バイオブロック法に従い強制的に行われていた。しかしある時期を境にフカミゼーションの拒否が流行し、強制的バイオブロックの修正案が可決される。しかしフカミゼーションで被害を受けた事例はほとんど無く、また母親が拒否する事もきわめてまれなケースだった。フカミフォビア(フカミ恐怖症)の原因は未だ解明しておらず、拒否が流行し修正案が可決された後、フカミゼーション拒否の流行は終結し拒否する者はほとんどいなくなった。
  • フカミゼーションは明らかに訳者である深見弾を意識した命名だろう。日本人の読者だけが楽しめる小細工である。
  • マーラヤ・ペシャの別荘地で謎の怪物が現れ住人がパニックに陥るという事件が起きる。マクシムは調査にトイヴォを派遣する。本書はマクシムの回想記であり、報告書等を元に編成されているが、この調査とトイヴォとその妻のやり取りはマクシムが再構成し描いているという設定になっている。
  • マーラヤ・ペシャで複数の擬似生物が現れ住人をパニックに陥れた。擬似生物の痕跡は至るところに見つかったものの、これを発生させる人工胎生装置は見つからなかった。トイヴォは調査のなか、この擬似生物に対する住人の反応に着目する。住人の反応は三つに分けられた。一つめのグループは自制心を失い逃げ出した者たち、二つめのグループは後から戻ってくる勇気のある者たち、三つめのグループは擬似生物に恐怖を感じず、むしろ興味や同情する者たちだ。更に住人たちの証言と現場の痕跡から、擬似生物の再現可能性を専門機関に照会すると、そのような人工生物を再現する場合、莫大なエネルギーと解放を要し、現状の科学技術では空想の領域を出ないという結果が報告される。
  • トイヴォはマーラヤ・ペシャの調査の内容と、これまでの集団恐怖症の内容と併せて〈遍歴者〉の関与をマクシムに示唆する。宇宙恐怖症〈ペンギン・シンドローム〉とマーラヤ・ペシャの事件は人類を選別する実験であり、フカミフォビア(フカミ恐怖症)はフカミゼーションが何らかの形で人類の進化を妨げる為に人工的に発生したものである。しかしこの内容を報告されたマクシムはトイヴォに惑星サラクシのシャーマンが地球の滞在を一時間で切り上げた事件を調査すべく超能力研究所へ向かうように命じる。マクシムは他の職員にも超能力研究所への調査を命じており、超能力研究所について何かを掴んでいるらしかった。
  • トイヴォは超能力研究所へ赴く。誰もが義務付けられているという別称〈スーパーマン狩り〉と呼ばれるスキャンで検査された後、古くからマクシムの友人だというロゴヴェンコをはじめ、シャーマンと接触した複数の人々と面談するも何も手掛かりが得られない。シャーマンに付き添った職員によれば別れを告げる際、「山や森、雲は空は見えるというのに、目と鼻の先にあるものがなにも目にはいっていない」という童歌を口にし、絶対にありえない事を意味するサラクシの慣用句「盲に目明きが見られるようになるまで待とう」という言葉を残したと言う。
  • 引き続き調査を進めるなか、超能力研究所のディスプレイに、マーラヤ・ペシャで起きた事件で擬似生物に興味や同情を感じた人々の名前を発見する。これに驚いたトイヴォは超能力研究所に三つめのグループを報告した者を調査をしたところ、後から戻ってくる勇気の持った二つめのグループが超能力研究所の常任活動家を務めていた事を知る。
  • 超能力研究所は〈遍歴者〉が関与していると確信するトイヴォに対し、マクシムは〈ペンギン・シンドローム〉倒錯者とフカミゼーション拒否者のリスト、更に同僚サンドロ=ムトベヴァリが調査している失踪後に天才となって人々が現れる〈リップ・ヴァン・ウィンクル*1〉リストの重複者リストを作成するよう命じる。
  • 同僚サンドロ=ムトベヴァリはトイヴォに調査中に起きた不可思議な出来事を話す。調査対象者と面談を試みようとすると「まったくまずいときに来たもんだ」と言われた後、めまいに襲われもと来た道で目を覚まし、それを何度も繰り返したのだという。更に彼の報告書には、面談中に姿を消した者さえ居た。
  • トイヴォが作成したリストは驚くべき重複率を見せる。マクシムとトイヴォは世界評議会議員であり局長代理のコモフと同じく世界評議会議員でコムコン創設者であるゴルボフスキーと会談する。〈ペンギン・シンドローム〉により宇宙適応者が抽出され、マーラヤ・ペシャでは地球外のバイオテクノロジーを使って異生物に好感を持つ者を抽出する実験を行い、フカミフォビア(フカミ恐怖症)は何らかの理由で〈遍歴者〉の性質を人類の次の世代から奪う恐れがあった為に行われたキャンペーンである。そしてこれらを行った被選別者は数を増やしそれを隠す必要も無くなった。平凡な人間が失踪後に天才となる〈リップ・ヴァン・ウィンクル〉はその現れであり、超能力研究所は候補者の中から被選別者を突き止める〈遍歴者〉の活動の場である。トイヴォは以上の調査結果を報告する。しかし死を前にしたゴルボフスキーは、人類による他の惑星での進歩官〈プログレッサー〉としての活動は、過去を変えられない人類が過去のツケを払うべく他の人々を助けるしか無い為であり、この〈進化のバックアップ〉とも言える行為は〈遍歴者〉には必要無く、また超文明が人類に手掛かりを残すはずが無いと反論する。
  • ここで登場するコモフはトイヴォの母であるマイヤ=グルーモワと旧知の仲らしい。調べてみると邦訳されていないNoon Universe〈未来年代記〉の連作集で語られているという。尚、ここでは触れていないが、被選別者が関与した事件には鯨の集団自殺というものがあるらしく、トイヴォはこれも調査していたが、本書では時折語られる程度のため割愛した。
  • トイヴォは報告を終えるとマクシムと共に別室で待たされる。報告は失敗に終わったと思われたが、そこにゴルボフスキーが表れトイヴォを認める態度を示す。マクシムとトイヴォがゴルボフスキーの家を後にする途中、超能力研究所のロゴヴェンコとすれ違う。
  • 続けて行われた超能力研究所のロゴヴェンコとコモフとゴルボフスキーの会談は一部データが消失したテープから再現される。ロゴヴェンコは自身が既に人類では無く、〈類人類〉もしくは〈超人類〉であると語る。宇宙恐怖症や異生物恐怖症は人体に第三パルス系を発揮させる為の手段であり、フカミフォビア(フカミ恐怖症)は視床下部の抑制を解除すると第三パルス系を崩壊させてしまう為に行われたキャンペーンだったという。この進化は、ソーシャルテクノロジカル・オーガナイゼーション(社会工学的な組織)が一定の段階に到達した為に発生したものであり、十万人に一人の確率で第三パルス系が見つかり、第三パルス系のイニシアチブを取り〈類人類〉を育成する事は最近になって出来るようになったという。更に人類には第四低周波系、第五…と新たなシステムが発見されているとも語り、ロゴヴェンコはその証拠として何らかの変化をコモフとゴルボフスキーの前で見せる。人類との共生が出来ないのかという問いに〈類人類〉は人類や地球に興味は無く、地球に留まっているのは、家族や愛する者から離れられない不幸な連中と人類との関係を危惧する一部の者だけだという。
  • トイヴォはロゴヴェンコと世界評議会議員の会談の記録を読み〈遍歴者〉が関わっていない事に衝撃を受ける。そして人類は〈類人類〉の孵化器になるべきでは無く、強硬手段に出るべきだと語る。これに対してマクシムは〈類人類〉と共生するか共生しないかを選ぶしか無く、状況をコントロールしているのは〈類人類〉だと語る。更にマクシムは、超能力研究所が選別を行っていると気づいた時点で、部下全員を超能力研究所に派遣し人間である事を確かめさせたという。その結果、トイヴォには第三パルス系が見つかったという。あなたは騙されていると吠えるトイヴォ。マクシムは超能力研究所内部に調査員を送り込む事は出来ずその周辺にしか配置出来なかったと語る。トイヴォはその発言に自らが〈類人類〉となって内部を調査をする事は出来ないと語り、職を辞する。
  • マクシムがトイヴォの顔を見たのは上記が最後となる。ロゴヴェンコに説得されるもトイヴォはこれを断り、妻がいる惑星パンドラに向かう。その後も何度かトイヴォから連絡があったがマクシムは会う事は出来なかった。どうやらトイヴォは〈類人類〉となり、時折妻に会いにやってくるものの、徐々に不在の期間を長くしているという。
  • コモフのレポートによれば、その後〈類人類〉は地球から全て去ってしまったという。ゴルボフスキーは「波が風を消す」と狡猾に笑ったが誰もその意味を判っていなかった。
  • 前述した「世紀の人物伝、五人の生涯」ではトイヴォは進歩官〈プログレッサー〉として惑星ギガンダで働く時分に〈類人類〉と接触しており、その後全ての汚名を〈遍歴者〉に着せるべく暗躍していると語られているらしい。マクシムは「世紀の人物伝、五人の生涯」は思慮の浅いたわごとでしか無く、なぜ事実を語らず沈黙を通すのかというマイヤ=グルーモワの手紙に「わたしは語った、できうるかぎりすべてを。話せることはすっかり語りつくした。」と回想録を終える。

『波が風を消す』、この題名は一体何を意味するのだろうか。風が〈遍歴者〉であるならば波は人類であるから、人類から〈遍歴者〉の影響が消えるという事だろうか。それとも人類から進化した〈類人類〉が〈遍歴者〉を消すという事だろうか。それとも人類が〈遍歴者〉も〈類人類〉も消すという事だろうか。正直はっきりとしない。更に言えば、本書は本シリーズの〈遍歴者〉の究明を意図していたのにも関わらず、結果として〈遍歴者〉の存在が明かされない。おそらく〈類人類〉は〈遍歴者〉と同類もしくは〈遍歴者〉までの進化の過程と言えるのだろうが、『ストーカー』のゾーンと同じように物語の核でありながら正体を明かされない仕掛けという位置付けなのだろう。
本書を読み、その内容から連想したのはアーサー=C=クラークの『幼年期の終わり』だが、新たな進化を前にして様々な態度を取る人々を、より生々しく弱々しく滑稽に描写して見せるのはストルガツキーならではと思う。

波が風を消す (ハヤカワ文庫SF)

波が風を消す (ハヤカワ文庫SF)

*1:アメリカの小説家ワシントン=アーヴィングの短編名。アメリカ版浦島太郎として知られており、森鴎外が邦訳している。恥ずかしながら全く知らなかった作品である。

蟻塚の中のかぶと虫

アルカジー&ボリス=ストルガツキー著、深見弾訳『蟻塚の中のかぶと虫』を読んだ。

マクシム=カンメラーが活躍する三部作の第二作目であり、異文明接触委員会が登場するNoon Universe〈未来年代記〉シリーズの一つでもある事は『収容所惑星』でも触れた通りである。本書では『地獄から来た青年』で登場した惑星ギガンダとその進歩官〈プログレッサー〉コルネイが重要な脇役として登場する。

  • コムコン-2異常事件部に所属するマクシム=カンメラーは上司である閣下ことルドルフ=シコルスキーから極秘裡に人捜しをするよう指示される。対象は惑星サラクシから地球に転属途中に姿を消した進歩官〈プログレッサー〉レフ=アバルキンだった。しかし渡された古臭い書類綴りには、失踪する理由も、そもそも手掛かりがあるようにも思われなかった。
  • コムコンとは異文明接触委員会ないし監視委員会を指し、コムコン-1には進歩官〈プログレッサー〉が所属する部署があり、コムコン-2には異常事件部こと通称異事部等の部署がある模様。マクシム=カンメラーは前巻『収容所惑星』の後、惑星サラクシで進歩官〈プログレッサー〉もどきとして働き、本書では異常事件部に所属している。続刊『波が風を消す』では異常事件部で働いた後、余生を送ったようである。尚、進歩官〈プログレッサー〉について、発展途上の惑星での情報収集等をしていると触れてきたが、本シリーズには「実験歴史学」なる学問分野があり、高度な理論を基に異文明に干渉しているようだ。特にそういった説明があるのが「神さまはつらい」である。
  • 物語はマクシムの関係者への調査と書類綴に収められた報告書―レフ=アバルキンが惑星〈希望〉でビッグ・ヘッド人であるシチュクンと共同で参加した〈死せる世界〉作戦が交互に語られる。
  • レフ=アバルキンがビッグ・ヘッド人シチュクンと共同で参加した惑星〈希望〉は地球文明より高度な文明を持つ通称〈遍歴者〉が関与した星と知られている。テクノロジーのコントロールが出来ず破滅を辿ろうとする星に〈遍歴者〉が積極的に関わり原住民を宇宙空間トンネルを使い救い出した痕跡があった。しかし原住民の行方は知られず、あくまで〈遍歴者〉は惑星の生態系を守る為に原住民は排除しただけだと考える者もいた。レフ=アバルキンは当時非ヒューマノイドのビッグ・ヘッド人と共同で作戦に従事した唯一人の進歩官〈プログレッサー〉だった。本書は基本的にミステリーだが、レフ=アバルキンとビッグ・ヘッド人シチュクンの惑星〈希望〉の探索が冒険譚となっており、二人の奇妙な掛け合いが面白い。
  • 〈遍歴者〉に対し地球文明は調査をしているものの、非ヒューマノイドらしい事や名前の由来となる一つの場所に留まらない性質を持つ事しか判っていない。地球文明は、自らが発展途上の惑星に進歩官〈プログレッサー〉を送り密かに関与しているように、地球文明もまた〈遍歴者〉の進歩官〈プログレッサー〉によって影響を受けているのだと考えており、本書及び続刊のテーマとなっている。
  • マクシムはレフ=アバルキンに関わりを持った教師、主治医、元恋人、ビッグ・ヘッド人に調査を進める。動物心理学者として才覚がありながら、何故か進歩官〈プログレッサー〉として職業が方向付けられ、また進歩官〈プログレッサー〉としてビッグ・ヘッド人との協同を多く提案し認められるものの、何故かその任務からは外されていた。
  • レフ=アバルキンの元恋人であるマイヤ=グルーモワはマクシムとの面談に激しく取り乱してしまう。どうやらレフ=アバルキンは彼女の許を訪れたらしい。しかしシコルスキーは彼女が地球外博物館に勤めている事に注視する。
  • レフ=アバルキンの元恋人であるマイヤ=グルーモワは次巻『波が風を消す』準主人公ともいえるトイヴォ=グルーモワの母親であり、トイヴォも幼い息子として登場する。
  • マクシム、シコルスキーはレフ=アバルキンから連絡が入る一方、マクシムもまたレフ=アバルキンの足跡を辿る事に成功していた。レフ=アバルキンが何を目的に行動しているのか判らなかったものの、元恋人とは過去について語り合い、元同僚のビッグ・ヘッド人には他の地球人と自分に違いがあるのか尋ねていた。
  • シコルスキーと共に地球外博物館に侵入するマクシム。シコルスキーはレフ=アバルキンが現れるのだと確信していたが、マクシムにはその理由が判らなかった。レフ=アバルキンとマイヤ=グルーモワの間で博物館は話題にさえなっていないからだった。
  • 二人の前に姿を表したのは、科学者であり科学に無限の発展を認める自由主義者のアイザック=ブロンベルグだった。シコルスキーとアイザックは過去の因縁をぶつけ合い始める。コムコンこと異文明接触委員会にとって自由主義者である科学者は有用な顧客だったが、秘密主義でもある異文明接触委員会は自由主義者最左翼のブロンベルグと仲違いしていたのだ。
  • ブロンベルグの元にある若い男が尋ねて来た。男は両親の失踪と自身の出生について調べていた。男の出生時に発生した科学史上の事故を調べていると石棺に関する話題が含まれており、男の右肘に見覚えのある変わった痣がある事を発見したのだ。
  • ある惑星で〈遍歴者〉が残した建築物が発見される。その建築物は現在も稼働中だった。その地下には石棺と呼ばれる装置があった。石棺は四万年以上前につくられたものだったが、その中には十三個のホモ・サピエンスの受精卵が保管されていた。世界評議会がこの発見の在り方を検討しようするなか、受精卵は活動を開始してしまう。破壊するのか、人類として受け入れるのか、〈遍歴者〉の意図に乗るのか、議論が繰り返された。最終的に十三個の受精卵は成長を見守られる事となる。コムコンの責任者であったシコルスキーは十三個の受精卵について、発見そのものを封印し、彼らをバラバラに育て、出生を秘密にし、地球への影響を避けるため成長後は地球外の任務を与える事を決めた。
  • レフ=アバルキンの肘に痣がある事が主治医から報告される一方、地球外博物館に収められ、法律上移動させる事が不可能になった石棺=培養器・孵化器を調査の為に分解したところ、ケースがありその中には印が付いた金属板が収められていた。印はレフ=アバルキンの痣と一致しており、十三人の子どもたちそれぞれに発現した痣と一致していた。金属板の一つを分解し再生を試みたところ、遍歴者の物質である為に叶わず、同時刻にその金属板の印を持つ人物が雪崩で死に、周りの人々も怪我を負う事になった。実験と事故に関連性があるか判らなかったものの、実験は中止され、金属板は痣を持つ者にとって雷管=起爆装置と信じられるようになる。
  • 現在、惑星ギガンダの進歩官〈プログレッサー〉であるコルネイ=ヤシマアは十三個の受精卵が成長した者の一人だった。ある心理学者グループは世界評議会から許可を取り付け、シコルスキーが設けた決まりを破り、彼に出生の秘密を明かしている。非凡な精神力を持ったコルネイはこれに動じる事無く、自らに潜在的危険がある事を認め、あらゆる事に協力する事を請け合う。更にコルネイは進歩官〈プログレッサー〉として惑星ギガンダに配属される際、既に公爵の主猟官として侵入していたレフ=アバルキンと接触しているものの、何も起きていない。
  • 更に心理学者グループがもう一人に出生の秘密を明かすものの、その後自殺の可能性も排除出来ない死に方をしてしまう。その死後、金属板から印は消える事象が確認される。金属板の印と痣を持つ人物には関連性が認められる事は誰も疑わなかった。
  • シコルスキーはレフ=アバルキンに〈遍歴者〉のプログラムが発動し、元恋人が勤める地球外博物館に収められた雷管=起爆装置に引き寄せられているのだと考えを示す。
  • シコルスキーとマクシムの前にレフ=アバルキンが現れる。既にブロンベルグから出生の秘密を知ったレフ=アバルキンはこれからは自分の好きなように生きると話すのだった。
  • マクシムはシコルスキーの考えに疑問を呈し、地球外博物館を訪れたレフ=アバルキンに逃げるよう説得するものの、レフ=アバルキンはシコルスキーが待ち受ける雷管の元へ向かう。
  • 銃声が聞こえマクシムが駆けつけるとシコルスキーによって撃たれたレフ=アバルキンが倒れていた。彼は手の先にある金属板に手を伸ばそうとしていた。元恋人から知った童歌を口から漏らしながら………。

ここまで読んで高度な文明が発展途上の文明にちょっかいを出す気持ち悪さ、しかも御大層に「実験歴史学」なるものまで用意している醜悪さが理解出来てきた。実験する為に歴史に関わってほしくない。本書の題名は、かぶと虫が蟻塚に侵入し慌てる蟻を眺めている様を〈遍歴者〉と人類にあてがった比喩である。マクシム=カンメラー三部作の中ではこの作品が一番好みだった。

私は古本屋で『収容所惑星』、『蟻塚の中のかぶと虫』、『波は風を消す』の文庫版セットを購入して読んだ。

収容所惑星

アルカジー&ボリス=ストルガツキー著、深見弾訳『収容所惑星』を読んだ。

マクシム=カンメラーが活躍する三部作の第一作目であり、異文明接触委員会が登場するNoon Universe〈未来年代記〉シリーズの一つでもある。この未来年代記にあたる他の作品に「神様はつらい」「地獄から来た青年」がある。尚、本書は物語を覆す結末が用意されている作品であり、下記でこれについて触れている事を留意されたい。

  • 惑星を調査する自由調査団はまともな人間がやらない仕事らしい。この仕事に取り組むマクシム=カンメラーは宇宙船が成層圏で隕石と衝突する事故に遭い、放射能に汚染された惑星サラクシに降り立つ。宇宙船を何者かに爆破されたマクシムは惑星の調査に乗り出す。
  • 原住民に捕まったマクシムは憲兵隊に引き渡される。交渉を試みようとするも突如躁状態に陥った憲兵隊たちが特攻隊の歌をがなり暴力を働くのだった。結局病院に収容されるマクシム。権力者である〈遍歴者〉が彼に目を付け監督下に置こうと連行するものの、またも謎の躁状態に陥った原住民たちに巻き込まれ逃げ出す事になる。
  • 最初に知り合った憲兵隊員ガイの元に身を寄せたマクシムは憲兵隊候補生として働くようになる。憲兵隊の仕事は国家転覆を図る奇形人を取り締まる事だった。国は紅蓮創造者なる一部の集団によって支配されミサイル迎撃システムによって守られているのだという。しかし仕事に疑問を持ったマクシムは上官の奇形人殺害命令を拒否し銃弾を浴びるのだった。
  • 原住民とは比較にならない体力と治癒力を持つマクシムは死んでおらず奇形人の元に身を寄せる。ミサイル迎撃システムは国民をコントロールする放射線放出設備であり、奇形人はこれに対応出来ず頭痛等の症状に苦しんでいるのだという。国民の謎の躁状態もこれが原因だったのだ。ミサイル迎撃システムを破壊する事になったマクシムは塔の爆破に成功するが、ほとんど仲間が死んでしまう。
  • 捕まったマクシムは囚人として国境線近くで自動機械の破壊に従事していた。そんな最中、森で大型の頭を持った犬と遭遇する。物語でこれ以上触れられないものの、次巻「蟻塚の中のカブト虫」に登場するビッグ・ヘッド人である。尚、地球人で初めてビッグ・ヘッド人を発見したのはマクシムらしい。
  • 自動機械の戦車を手に入れたマクシムは南の国境線を越えようとする。そこで左遷されたガイと出会い連れて行く事にする。
  • 南で迫害されたミュータントたちの共同体を見つけたマクシム。飛行機を手に入れ海岸線に赴くものの、座礁した潜水艦から殺戮の歴史を知るだけだった。
  • 捕まったマクシムは隣国ホンチの国境線に連れて行かれる。戦争が始まるのだ。放射線移動車に追い立てられた戦車の群れが国境線を越える。マクシムはこれを逃れるものの、混乱の最中にガイは死んでしまう。
  • 〈遍歴者〉の計らいのもと研究員になったマクシムは地下組織を先導し、保身を図る国家検事の協力のもと放射線コントロール設備を爆破する事に成功する。遂に〈遍歴者〉を名乗る男と相対するものの、彼が発したのはドイツ語の罵倒だった。
  • 〈遍歴者〉の正体は銀河系保安局の職員であり、惑星を救済する為に国家中枢に入り込んでいた。マクシムはそれを知らずに行動し「あらゆる結果を考慮した準備」を破壊してしまったのだ。放射線設備もまた隣国からの侵攻を食い止める手段だったという。
  • 〈遍歴者〉を名乗る男はルドルフ=シコルスキーであり次巻ではマクシムの上司、通称閣下として登場する。本書では惑星サラクシの進歩官〈プログレッサー〉だったという事だろう。
  • 進歩官〈プログレッサー〉の役割は「神様はつらい」や「地獄から来た青年」の通り、発展途上の惑星で情報収集及び干渉するものである。更にここでシコルスキーが〈遍歴者〉を名乗っているが、高度な地球文明を凌駕する更に高度な文明の呼び名をあやかったものであり、続刊で言及される。
  • 物語の終わり、マクシムは〈遍歴者〉であるルドルフ=シコルスキーに今までの準備を破壊した事を非難されるなか辛うじて「ぼくが生きているあいだは、どんなことがあっても、けっして(放射線放出)センターを建てるようなことはさせない。たとえその意図が善意からでたものであっても……」と応えるのだった。

本表紙が古臭いものの強烈な印象を与える。結末は知らなかったのだが、よくよく考えてみると異文明接触委員会が登場する事が分かれば察しがついたかもしれない。ストルガツキー兄弟の作品で娯楽的な結末―但し苦渋に満ちている―が用意されているとは思ってもみなかった。

収容所惑星 (ハヤカワ文庫SF)

収容所惑星 (ハヤカワ文庫SF)

世界終末十億年前

アルカジー&ボリス=ストルガツキー著、深見弾訳『世界終末十億年前 異常な状況で発見された手記』を読んだ。

二世紀振りの猛暑、「ありきたりの天体物理学に恒星力学。恒星と拡散物質の相互作用。」を研究する天文学者マリャーノフはある一つの発見をしようとしていた。しかしそれを遮るように、身に覚えのない高価な食料品が届いたり、生物学者の友人ワインガルテンが突然電話掛けてよこし、今まで興味を持たなかったマリャーノフの研究について聴きたがった。電話の途中、妻の友人だという女性が家に上がり込み、隣人の物理学者スニョゴヴォーイを交えて酒と共に雑談に耽るなか、スニョゴヴォーイもまたマリャーノフの研究について知りたがった。翌日、スニョゴヴォーイが死んだと捜査官が訪れ、女性は姿を消していた。慌てたマリャーノフは上階に住む数学者ヴェチェローフスキイの元に駆け込む。
部屋に戻れば生物学者ワインガルテンとスニョゴヴォーイが口にしていた電子工学者ザハールとその子どもが居た。ワインガルテンはある発見をしたものの日常にごたごたが起き研究が進まずにいた。そして突然赤毛の男が部屋に訪れ、地球外文明の代表を名乗り、今までの騒ぎは意図したものであり研究を断念させる為だったと語った上、マリャーノフとザハールの研究も注視しているという。ザハールは昔関係を持った女性が次々と現れ、そして一人は子どもを連れてやって来た。古代から地球には九人同盟なる存在がおり科学的成果を蓄積し地球が自滅しないよう監視しているのだと彼女は言い、子どもを残して立ち去った。
更に東洋学者グルーホフも加わり、自分たちに起きている事態を荒唐無稽だと思いながら議論するなか、皆の話を聞いた数学者ヴェチェローフスキイはマリャーノフに〈均衡の取れた宇宙(ホメオスタチック ユニヴァース)〉なる考えを示す。「宇宙はその構造を維持しつづける」という公理の元、マリャーノフたちの研究がそれを脅かす可能性があり、十億年後に他の何千何万の研究と一体となって世界を終末に導かないようにしているのだという。
最初は荒唐無稽な話だと馬鹿にしていたマリャーノフだったが、家族や現在の生活を守る為に研究を諦める。しかし皆の研究資料を預かった数学者ヴェチェローフスキイは今の仕事を辞め、皆の研究の交わりとこれを断念させようとする法則を見つけるべく、パミール高原で仕事をするという。マリャーノフはヴェチェローフスキイが話を終えたのにも関わらずその続きを聞いていた。「十億年あれば、やれることは沢山ある、もし降伏しないで理解すれば、理解して降伏しなければ。」「蝋燭がパチパチ弾ける音を聞きながらだって原稿用紙は埋めることはできるんだ!ブラック・リバーのほとりにだって、命を捧げる価値のあるものはみつかるはずだ、と……」

「月曜日は土曜日に始まる」「トロイカ物語」が乗り気でなかっただけに夢中で読み進めた。ストルガツキー兄弟の作品の中でも特に好きな話だ。また本作はアレクサンドル=ソクーロフが邦題「日陽はしづかに発酵し…」として映画化しており、またストルガツキー兄弟も「蝕の日」と題して本作の映画シナリオを発表している。
尚、本書にはアルカジー=ストルガツキーによる自伝、深見弾による作品リストが掲載されている。

世界終末十億年前―異常な状況で発見された手記

世界終末十億年前―異常な状況で発見された手記

トロイカ物語

アルカジー&ボリス=ストルガツキー著、深見弾訳『トロイカ物語』を読んだ。

「月曜日は土曜日に始まる」の続編にあたる作品。ただし訳者あとがきの通り、本作は二度発表されており、1968年シベリア地方文芸誌「アンガラ」に掲載された作品と1987年「スメナ―」に掲載された異なる内容のものがある。本書はこの二作の邦訳が収録され、細部の違いを楽しめるにようになっている。

異常現象の合理化と活用に関する三人委員会(トロイカ)が権力を握ったコロニー。プログラマーであるプリワーロフはブラックボックスを、エジクはお喋り南京虫を手に入れるべく、この委員会に出席する。この委員会ではあらゆる異常の存在する権利を審査していた。しかし実際にそこで行われていたのは凡庸な人々の官僚主義的で保守的なお役所仕事だった。プリワーロフはブラックボックスを手に入れるべく申請するも唯の黒い箱がブラックボックスだと決めつけられ、お喋り南京虫は自らを認めてもらうべく委員会で演説するも捻り潰されそうになる。その他、人間を尊敬する雪男、地球に不時着してしまい元居た場所に帰れなくなった詩の読者である宇宙人、翼竜、首長竜、過去の文献を読みたがる巨大なタコの妖怪等が登場する。

本書は官僚主義や保守主義を風刺した作品だったため体制批判とみなされアンガラは発禁処分となり編集部全員が首になってしまった。ストルガツキー兄弟はその後作品を発表する場が少なくなった。この時期アルカジーは翻訳で生活するしかなく、深見弾はアルカジーに義経紀等の資料を送って激励していたいう。

トロイカ物語

トロイカ物語

月曜日は土曜日に始まる

アルカジー&ボリス=ストルガツキー著、深見弾訳『月曜日は土曜日に始まる 若い科学者のための物語』を読んだ。

プログラマーである青年プリワーロフは旅の道中に二人の男性と出会う。男たちはプリワーロフの仕事を知るとちょうどプログラマーを探していたところなのだという。二人の好意によりある老女の家に泊まると、庭で猫が詩を諳んじながらど忘れしている声が聴こえ、鏡が喋り出し、井戸のカワカマスはどんな願い事を叶えられるが電化製品は勘弁して欲しいと言い出す。実は街には魔法妖術科学研究所があり、魔術やら魔法の道具やら精霊やら魔神やらが跋扈していたのだ。プリワーロフはプログラマーとして魔法妖術科学研究所で働き始め、研究所で起きる騒動に巻き込まれる事になる。

頭の中である公式を演算すればそこにリンゴが現れる。研究所にはイフリートやらジンがうろついている。舞台は現代そのままに科学と魔術が混合した設定となっており、正に現代にお伽話といった内容である。こういった話を面白がってやりたかったのだが、正直どうにも乗り気になれなかった。たぶんもう少し若い時、正に頭が混淆としていたハイブリッドな科学者だった十代の頃に読みたかった。しかしながら終盤に用意された二人のヤヌスことヤヌス-Aとヤヌス-Uの時間に関する謎解きが非常に面白かった。

タイトルが素晴らしいと思うが、これはワーカホリックな研究所に勤める職員たちの合言葉である。つまり休みになった土曜日こそ月曜日のように仕事をするという訳だ。私にはとても出来ない。

月曜日は土曜日に始まる―若い科学者のための物語

月曜日は土曜日に始まる―若い科学者のための物語

Jazz The New Chapter 3

柳樂光隆監修『Jazz The New Chapter 3』を読んだ。
「1」と「2」を読み去年聴いた音楽にとても影響があった。本書で紹介されているものは大半は未視聴であり、主要なものについてはこの機会にリンクを貼り視聴する事にした。結果として2曲取り上げているアーティストもいるが好みというより一曲だけで印象が判らないと判断した為である。

  • Kendrick Lamar「To Pimp A Butterfly」特集。楽曲に参加したRobert Glasper、プロデューサーであるTerrace Martinのインタビュー。その他、Kamasi Washingtonの特集、José James、Gregory Poter、Jason Moranのインタビュー、冨田ラボと原雅明と柳樂光隆の鼎談がある。意図してヴォーカルものは聴いていなかったのだが、José JamesのBillie Holidayのカバーがとても良い。

Kendrick Lamar「For Free?(interlude)」※Robert Glasper、Terrace Martin、Kamasi Washingtonが参加
Kamasi Washington「Change of the Guard」
José James「God Bless The Child」※ドラムはEric Harland
Gregory Porter「1960 What?」※デトロイトの黒人暴動をモチーフにしたもの

  • Snarky Puppy、Hiatus Kaiyote特集。Snarky PuppyのMichael League、Corey Henry、Bill Lauranceへのインタビュー。Hiatus KaiyoteはフロントマンのNai PalmとドラムのPerrin Mossのインタビュー。その他ではMarc Caryのインタビュー有り。Marc Caryのラーガものが思いの外良い。

Snarky Puppy「Lingus」※キーボードで超絶技巧を披露しているのがCorey Henry
Hiatus Kaiyote「Laputa」※宮﨑駿監督引退へのトリビュート
Marc Cary「12 Stories」※ラーガ(インド)とアフリカの影響の繋がりを表現

  • UKジャズ、ニューヨーク、ラテンジャズ、ラージアンサンブル、インディークラシック特集。GoGo Penguin、e.s.t、Tigran HamasyanのECM作品「Luys I Luso」の特集、Miguel Zenónと挾間美帆のインタビュー等。John ZornのMASADAに参加しているというDave Douglas「High Risk」が気に入った。Tigran Hamasyanの「Luys I Luso」も思った以上に良さそうだ。

GoGo Penguin「Hopopono」
GoGo Penguin「Shock and Awe」※音響効果が生み出す空間性による表現
Esbjörn Svensson Trio「Semblance Suite in Three or Four Movements」part.1
Esbjörn Svensson Trio「Semblance Suite in Three or Four Movements」part.2
Esbjörn Svensson Trio「Semblance Suite in Three or Four Movements」part.3
Esbjörn Svensson Trio「Semblance Suite in Three or Four Movements」part.4
Dave Douglas「High Risk」※Mark Guilianaがドラムとして参加
Miguel Zenón「Through Culture and Tradition」※NY在住プエルトリコ移民のインタビューがカットアップ
Asuka Kakitani Jazz Orchestra「Bloom」
John Hollenbeck「The Moon's a Harsh Mistress」
Geir Lysne「Memorits N'Gneng」
Geir Lysne「Vebburedong」
Miho Hazama「The Urban Legend」
The Franky Rousseau Large Band「Hope」※bandcampのみの販売
Tigran Hamasyan「Hayrapetakan Maghterg (3)」
Bang on a Can All-Stars:「Real Beauty Turns」
yMusic「Music In Circles」
Valgeir Sigurðsson「Between Monuments」

Jazz The New Chapter 3 (シンコー・ミュージックMOOK)

Jazz The New Chapter 3 (シンコー・ミュージックMOOK)

モスクワ妄想倶楽部

アルカジー&ボリス=ストルガツキー著、中沢敦夫訳『モスクワ妄想倶楽部』を読んだ。

モスクワ在住の作家は所属する作家倶楽部から原稿を幾つか持って研究センターに行くよう命じられていた。研究センターでは何やら作家の原稿に関する研究が行われているらしい。科学技術に貢献すべく重い腰を挙げて外出すると、同じマンションに暮らす友人が病院に連れ出されそうになっている。友人は特別な薬を取って来て欲しいと言い、仕方無くある施設を訊ねるものの薬を手に入れられない。仕方無く病院に赴くと友人は薬の事を忘れるようにと喚くばかりだった。それから作家は何者かに見張られている気配を察するのだが…。
他方、作家は問題の研究センターに赴くと男と機械に迎えられる。男によれば機械はそのテキストの読者の数を示すのだという。作家は自らが書き続けて来た原稿「青ファイル」の行く末について考え始めていた。そしてふと男の正体が「巨匠とマルガリータ」の作者であるブルガーコフである事に気がつく。倶楽部で男を見つけた作家は彼と青ファイルの行く末について語る。そして男は見せた事も無い青ファイルの一節を諳んじて見せる。作家は青ファイルのまだ完成していない何百頁を思い、倶楽部のレストランで訳も判らず幸福になりながら食事を注文をするのだった。

モスクワ在中の作家はアルカジー=ストルガツキーがモデルとなっているようだ。物語前半の薬の件は「スプーン五杯の霊薬」の筋書きをなぞったものである。度々言及される「青ファイル」は執筆されていたものの、当時発表されていなかったストルガツキー兄弟の「滅びの都」を指す。そして研究センターで出会う男は、演劇作品や小説を執筆するも大半を発表出来ず、または直ぐに打ち切られてしまい生涯を終えたブルガーコフである。ペレストロイカグラスノスチ以前に於いて、作品が発表出来るか否かは一つの問題であったろう事は想像に難くなく、実際ストルガツキー兄弟は作品が発表出来ない時期があったと言う。作家とブルガーコフの対決は本書でもっとも読み応えがある部分である。また訳者が指摘している通り、作家倶楽部に併設されたレストランの薀蓄等は「巨匠とマルガリータ」を意識したものとなっており、ブルガーコフ及び「巨匠とマルガリータ」へのオマージュとなっている。

本書の原題は「びっこな運命」であり、作家・作品の運命を表したものとなっている。また「みにくい白鳥」と組み合わせて長篇として作品は完成されており、その長編の章立ては訳者あとがきにて記載されている。

本書で作家に深見龍なる日本人から手紙が届いている。これはストルガツキー兄弟の作品を邦訳していた深見弾を指している事は明らかだ。更にストルガツキー兄弟の作品を読み進めたところ「波が風を消す」にてフカミゼーションなる言葉を見つけた。深見弾ストルガツキー兄弟に多大な影響を与えていたのだと感慨深い思いがした。

モスクワ妄想倶楽部

モスクワ妄想倶楽部

みにくい白鳥

アルカジー&ボリス=ストルガツキー著、中沢敦夫訳『みにくい白鳥』を読んだ。

雨が降り止む様子は無い。作家ヴィクトルは娘が大人のように話している事に気がつく。妻によれば娘は濡れ男のところに出入りするようになったという。濡れ男について余り街の人々は知らない。伝染病だという話もあったが憶測の域は出ず、街の外れの病院に収容されている。偶然、ヴィクトルは濡れ男が襲われているところに遭遇し興味を持つようになる。そんな折、作家に子どもたちから講演の依頼が届く。質疑応答で子どもたちは作家の考えや既存の価値観について疑問が示してみせる。そして子どもたちは濡れ男が住む収容所に身を寄せ戻らなくなる。親たちは子どもを取り返すべく収容所に集まり、また政府も濡れ男の弾圧を始めるのだが…。

本書では、未来を託されるべき存在である子どもたちが、過去の遺産や思想を受け継がないとはっきりと示す。この考えには衝撃を受けた。そして頭に過ぎったのは、過去の様々な文化を学び受け継ぎながら戒めているはずの過去の汚濁もまた継承してしまい、発露するきっかけを与えている、そんな事だった。

雨男は食料より本を読まなければ生きていけないらしい。情報生命体的な人の突然変異なのだろうか。

本書は単独で発表されたものだが、その後ストルガツキー兄弟は『そろそろ登れカタツムリ』と同様、『モスクワ妄想倶楽部(原題「びっこな運命」』と合わせて一つの長篇として発表している。本書はまだその長篇が未発表だった為、単独で刊行したと訳者あとがきにある。

みにくい白鳥

みにくい白鳥

そろそろ登れカタツムリ

アルカジー&ボリス=ストルガツキー著、深見弾訳『そろそろ登れカタツムリ』を読んだ。

森は深く広く誰も何も理解出来ずにそこにある。森に建てられた研究所を舞台にしたペーレツ編と森でさまよい暮らすカンジート編で本書は構成されている。実際本書が発表された当時、ペーレツ編とカンジート編は別個の作品だった。また発禁の憂き目や外国での無断出版等の問題でそもそも作品として発表される場が無く、ペレストロイカの後、一つの作品として発表されるに至ったという。

ペーレツは枕草子を題材にした「平安後期の女性の詩歌にみられる文体とリズムの特徴」というテーマを持った研究者らしい。彼は森に入る為に研究所を訪れた。しかし森に入る事は許されず、お役所仕事に従事している。滞在許可が切れ、研究所を離れようとしても引き戻されてしまう。所長に直談判しようにも誰も所長を見たものはいない。皆、研究所の不文律に支配され、そこから逃れる事が出来ないでいる。
一方、三年前に森にヘリコプターで入り消息を断ったカンジートは、研究所での暮らしを忘れてしまい、森の集落で暮らしている。森には集落が幾つか有りそこで人々が原始的に暮らしているらしい。彼らは、「死体」なる動くでくの坊や野盗に怯えて暮らしている。カンジートは森を抜けだそうとするのだが、気がつくとその決意自体を忘れてしまう。森を抜け出すにはそれなりの準備がいるらしい。しかしまた準備自体を忘れてしまう。やっと森へ出掛けるものの、野盗たちに襲われ計画はご破産になる。妻と共に森を駆け抜けると妻の母親たちが姿を現し、男は必要が無いのだと言う…。

ペーレツは研究所の何かに支配され途方にくれ、カンジートはただ森を警戒しながら歩いている。死体やら水の玉が森を跋扈し、誰もそれが何なのか判らない。カンジート編に登場する森の怪しげな住人たちの姿は、椎名誠のヘンテコSF的な要素があり楽しめなくも無い。官僚主義、人類とは別個の生態系ー未知との接触をモチーフにした不条理な物語という事になるのだろうか?しかしそれでは余りに月並みで、それだけの内容だとは思えない複雑さがこの物語にはある。尚、本書の題名は小林一茶の俳句「かたつむり、そろそろ登れ 富士の山」から取られており、冒頭に掲げられている。

地獄から来た青年

アルカジー&ボリス=ストルガツキー著、深見弾訳『地獄から来た青年』を読んだ。

惑星ギガンダではアライ公国と帝国が血みどろの戦争を繰り広げていた。アライ公爵に忠誠を誓う公国特殊部隊ファイティング・キャットのガークは突破された前線にて守備につくものの、戦車に焼き出され炎に包まれる。
ガークが目覚めた先は地球だった。優れた文明を持つ地球人は、惑星ギガンダの隅々に地球人を送り込み、優れた人物を助け、また政治に介入しているのだという。ガークは彼らにたまたま助けられた一人だったのだ。
惑星ギガンダの干渉に携わるコルネイと共に地球で暮らすガーク。そこには全てあったが、ガークには何も無いに等しい場所だった。コルネイが公国と帝国の戦争を終結させるべく計画を進めるなか、ガークは地球文明に対して自らが全くの無力である事を悟り、また忠誠心をもて余し、兵士としてのやり場を失ってしまう。
コルネイに帰還を許されない為、ロボットを兵士として従え軍事教練して日々を過ごすなか、コルネイから公国と帝国の戦争が終結し、公爵が逃走した事を教えられる。またコルネイを尋ねたアライ人と偶然出会うも「人殺し。」と罵られる。コルネイとの口論のなか渡された書類には、公爵たちの生活振りや、罵られた青年が数学に才があり、地球人に助けらた事が報告書としてまとめられていた。
コルネイに引き合わされた軍人が地球人である事を喝破するガーク。それはギガンダの大科学者を救う偽装の準備だった。ガークは、地球文明の利器で作り上げた拳銃で自らを惑星ギガンダに連れて帰るようコルネイを脅すのだった。
戦争は終結したものの政治的混乱・経済の混乱・伝染病に苦しむ惑星ギガンダ。ガークはぬかるみの中で立ち往生している軍用救急ワゴン車を見つける。血清を運ぼうと必死になる軍医に地球人とその超文明の幻影が過るガーク。しかし彼は幻影を振り払いワゴンを力一杯に押しながら故郷に帰ってきたのだと思うのだった。

「神様はつらい」と同様、超文明を持つ地球人が発展途上の惑星に干渉を図る一連のシリーズものだった。神様はつらいが、中世の反動期の最中を思わせる惑星で知識人を救い出そうとする地球人を描いたものに対し、本書は第二次世界大戦を彷彿とさせる争乱の最中の惑星の叩き上げの特殊部隊員が、地球人が惑星に干渉し戦争を終結に導くのを茫漠と見守る姿が描かれている。また惑星の干渉に携わるコルネイの生活や家族との確執等が他の惑星の兵士の視線から描かれている点も面白い。

本書の訳者はクレジット上、深見弾となっているが邦訳途中に死去した為、弟子の大野典宏・大山博が作業を引き継ぎ、また訳文のチェックを矢野徹が行ったと追悼文及び訳者あとがきにかえてに記載されている。深見弾はストルガツキー兄弟の邦訳をほとんど担っているが、アルカジー=ストルガツキーは日本語を理解していたためか交流もあったらしい。「モスクワ妄想倶楽部」という作品では、深見弾がモデルとされる日本人が登場しており、ストルガツキー兄弟の作品を語る上で深見弾は唯の翻訳家という枠を越えている。現在、深見弾の邦訳作品の再販等では大野典宏が改訳及びチェックをしているようだ。

地獄から来た青年

地獄から来た青年

完全な真空

スタニスワフ=レム著、沼野充義・工藤幸雄・長谷見一雄訳『完全な真空』を読んだ。

スタニスワフ=レムによる架空の書物の書評集であり、メタフィクションの傑作として知られている。「短篇ベスト10」で紹介した通り、読者投票では本書から五作品が選ばれている人気振りである。
私自身はと言うと、この手のメタフィクションには苦手意識があって、昔ボルヘスを途中で投げ出した記憶があり、果たして今回はどうかなと読み進めたのだが、どうにかこうにか最後の頁までたどり着く事が出来たと言ったところだ。
架空の書物の批評である訳だから、ある書物、その作者、それを書評する評論家がおり、更にそれを書くスタニスワフ=レム自身、次いで読者=私がいるという、入れ子構造が展開されている。評論的・同人誌的パロディもあり、特に同人誌的パロディに関する書評では、登場人物たちを読者が勝手に性愛で結び付ける事の是非について書評されており、少し隔世の感がある*1
結局、スタニスワフ=レムならばSF作品を読んだ方が楽しめるというのが正直な思いであるが、私自身がここで文章を書く事もメタフィクションでは無いのかと考えると、全く他人事では無いのだと今更ながらに気がついた。

*1:著作権を考えれば当たり前の事が薄氷の上で成り立っている事を認識する昨今ではある。

ソラリス

スタニスワフ=レム著、沼野充義訳『ソラリス』を読んだ。

飯田規和訳はロシア語からの翻訳になるらしいのだが、そのロシア語版は編集サイドの自主的な検閲により一部削除された箇所があるという。沼野充義訳はポーランド語版からの翻訳になり、国書刊行会から出版されていたが、これがハヤカワ文庫版として読める事になった。国書刊行会の品のあるハードカバー版は好きなのだが、やはり手軽な文庫版が発売された事は嬉しい限りだ。

過去に本書を読んでいた時は、ソラリスが主人公の前に出現させた死んだ妻の蘇りと生の反復から、生の一回性という問題を扱った作品として読んでいた。タルコフスキーの映画版「惑星ソラリス」も生の一回性を押し出した作品になっており、ソラリスの地表に降り立った主人公が自らの父と再会を果たし跪くという終わりを迎えたのもこの為だろう。
他方、小説を読めば、この問題の背景にあるソラリスという未知との接触の不可能性が立ち上がってくる。特に本書ではソラリス学なる部分が忠実に訳されており、人類が未知を理解しようと試み積み重ねて研究していた事実が判る。主人公は理解しようと試み、しかし叶わなかった人類の一人でしか無い。

主人公がソラリスの地表―ミモイドに降り立ち、ゲル状の海と遊び飽きられ物語は終わる。どこか物悲しいものの、しかし美しい風景だと思う。

『天の声・枯草熱』

スタニスワフ=レム著、沼野充義・深見弾・吉上昭三訳『天の声・枯草熱』を読んだ。

スタニスワフ=レムの長篇二編が収められている。

  • 天の声

偶然発見された地球外からの信号を研究する為に一流の科学者達が集められた。しかし信号の一部を解読して出来たのはコロイド状の物質だけだった。信号の事実が解明出来ないまま研究と実験が続いていく。本作は数学者の手記という形を取っており、ソラリス等と同じように未知との接触の不可能性が主な主題になっている。同時に自らの生い立ち、科学者との対話、政治的な駆け引きが描かれる。コロイド状の物質の研究から核爆発を地球上あらゆるところで起こす事が出来るという爆発移動効果に関する件は、科学者たちの緊張感と政治的駆け引きが相まって非常にスリリングだった。

  • 枯草熱

枯草熱とは花粉症・アレルギー性鼻炎を指す言葉である。本作は確率論的ミステリーというジャンルになるらしい。ここでいう確率論とは、「自分の出生は両親の出会いがあったからであり、たまたまどこそこで偶然にも出会い、何時かの性交により、精子と卵子が邂逅を果たし、たまたまその前に二人はチョコレートを食べて興奮状態にあり、更に遡れば二人の両親はどこそこで出会い…」というような出来事の偶然の連鎖を指す。元宇宙飛行士でアレルギーを持つ男性がナポリで起きた怪死事件を解決する為、被害者の足跡を辿る偽装作戦を実行する。しかし男性はテロに巻き込まれるといった予想外な局面を迎えてしまう。様々な要素が重なって物事が解決に向かう様は、偶然の産物である故に奇妙な読後感をもたらすが、作品自体はストレートに描かれており、「天の声」よりは読みやすいものとなっている。

泰平ヨンの未来学会議

スタニスワフ=レム著、深見弾・大野典宏訳『泰平ヨンの未来学会議』を読んだ。

アリ=フォルマン監督が本作を原作に「コングレス未来学会議」として映画化している。映画を観たのだが、メタ的な視点やドラッグがもたらす幻覚をアニメーションで描く等面白い演出が為されているものの、結末等を鑑みると原作とは趣が異なった作品になっていると思う。タルコフスキーが「ソラリス」を原作の未知との接触というテーマを心理的な問題に引き付けた事態が、本作にも起きているからだ。

本作は題名の通り、泰平ヨンが登場するシリーズものの中編である。このシリーズは孤独な宇宙航海士泰平ヨンが遭遇したあらゆる出来事を描いたものとなっている。

破滅的に増大する地球の人口と食料危機等の問題を討議する為コスタリカで催された国際未来学会議。しかし会議の最中にテロ事件が勃発、軍が投下した覚醒剤爆弾の薬物によってヨンは西暦二千三十九年にコールドスリープから目覚める。目覚めた社会は、幻覚剤を服用する事であらゆる体験や知識を得る等、全ての欲望が満たす事が出来た。ヨンは軍が投下した覚醒剤爆弾の影響下にある幻覚だと思いつつ、この社会が現実なのだと認めるようになる。しかし薬物社会に嫌悪感を抱き、幻覚剤の服用を断つ。そして偶然再会を果たした教授から空気中に散布された薬物によって常に幻覚を観ている事を知らされる。教授から渡された覚醒剤を嗅ぎ周囲を見渡すと装飾が剥げ落ちた世界が姿を現すのだった。