短編ベスト10

スタニスワフ=レム著、沼野充義・関口時正・久山宏一・芝田文乃訳『短編ベスト10』を読んだ。

ポーランドのSF作家スタニスワフ=レムの短篇集。読者投票、編者、レムによって選ばれた短編十五作の内、十篇を邦訳したものとなっている。翻訳者の一人である沼野充義の解説によれば、本国版から除かれた作品は既に邦訳されており、以下がその作品になる。

  • 「サイモン・メリル「性爆発」」(邦訳「完全な真空」所収)
  • 「アリスター・ウェインライト「ビーイング株式会社」」(邦訳「完全な真空」所収)
  • 「泰平ヨンの未来学会議」(邦訳「泰平ヨンの未来学会議」所収)
  • 「アーサー・ドブ「我は僕ならずや」」(邦訳「完全な真空」所収)
  • 「マルセル・コスカ「ロビンソン物語」」(邦訳「完全な真空」所収)

以上の作品は本書同様国書刊行会から出版されている「完全な真空」、映画化により改訳版が再販されたハヤカワ文庫「泰平ヨンの未来学会議」で読める。
本書に収録されたのは以下の作品となる。カッコ内は作品の日本にて呼称されているシリーズ名となる。

  • 「三人の電騎士」(「ロボット物語」より)
  • 「航星日記・第二十一回の旅」(「泰平ヨン」シリーズより)
  • 「洗濯機の悲劇」(「泰平ヨン」シリーズより)
  • 「A・ドンダ教授 泰平ヨンの回想記より」(「泰平ヨン」シリーズより)
  • 「ムルダス王のお伽話」(「ロボット物語」より)
  • 「探検旅行記第一のA (番外編)、あるいはトルルルの電遊詩人」(「宇宙創世記ロボットの旅」より)
  • 「自励也エルグが青瓢箪を打ち破りし事」(「ロボット物語」より)
  • 「航星日記・第十三回の旅」(「泰平ヨン」シリーズより)
  • 「仮面」
  • 「テルミヌス」(「宇宙飛行士ピルクス物語」より)

どの作品も面白いのだが、なかでも印象に残ったのは「仮面」と「テルミヌス」である。
「仮面」は美しい女性の一人称となっており、中世を思わせる宮廷舞踏会の描写から始まる。ある男性との逢瀬が始まろうとするも、自身の中に蠢く感覚が発露すると謀反人を追い詰めるべく用意した殺人機械としての正体を現す。言葉そのまま人肌を脱ぎ、機械バッタが男を追い砂埃を挙げて疾走する。硬質な文体は格調高く難解であるものの、読み応えがある。
「テルミヌス」は宇宙飛行士ピルクスが古びた宇宙船で航宙中、船内で壊れかけたロボットを見つけ宇宙船が過去に遭遇した大事故の顛末を知るという、シリアスな作品となっている。

隠し砦の三悪人

黒澤明監督作品『隠し砦の三悪人』を観た。

大名同士の戦いに参加するも何も出来ず、捕虜となるも反乱が起き、何とかその場を逃げ出した百姓二人は、偶然にも金の延棒を発見する。大名の隠し財産だとはしゃぐ百姓だったが、そこに屈強な男が現れる。

百姓二人が金やら女に対する劣情を露わに、臆面も無くしゃしゃり出て物語を進行していく。この二人を、ルーカスがスター・ウォーズに於いてR2-D2C-3POのモデルにしたと言及されているが、オリジナルは欲望丸出しで憎めない面はあるものの可愛さは無い。

姫役を演じる上原美佐はきりりとした顔が良い。これほど眉毛を描く必要があるのかと思わなくも無いが。

火祭のシーンは東宝らしいなと思う。こういうシーンを面白いと思わなかったが、昭和の日本映画ばかり観ていると慣れてくるから不思議なものである。

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『ゴッド・ファーザー』『ゴッド・ファーザー PART2』『ゴッド・ファーザー PART3』

フランシス=フォード=コッポラ監督作品『ゴッド・ファーザー』『ゴッド・ファーザー PART2』『ゴッド・ファーザー PART3』を観た。

今更ながら「ゴッド・ファーザー」シリーズを観た。PART2までは楽しく観れたものの、PART3はやや冗長、ゴッド・ファーザーであるマイケルの娘役を演じるソフィア=コッポラがかなり浮いていると感じた。

マフィア映画だから暴力描写があって当然なのだが、売春婦が政治家の脅迫の為にあっさり殺されていたりする描写は何とも空しい。容赦無い暴力を振りかざしたゴッド・ファーザー自身も最後はシチリアで抜け殻になっているのは当然の業なのか。

シチリアで爆殺されるシモネッタ嬢が美しい。

マーロン=ブランド演じる初代ゴッド・ファーザーがちょっとした盗みを働き、知らぬ間に成り上がって行く様子は面白い。今後の人生を決める殺人を、初代と二代目共に自ら犯すのだった。

暗殺者が数人登場するが、余りに単純過ぎる決まりを信じ、他のもの一切が背景に引いていくような、前のめり気味の人物として描かれている。

シチリアは、常に意味も無い程に陽に晒され、アメリカの空は常に雲が垂れ込めている。

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ゴッドファーザー PARTIII<デジタル・リマスター版> [DVD]

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七人の侍

黒澤明監督作品『七人の侍』を観た。

物語の主役が侍だとばかり思っていた。しかし物語の終わりに侍を用心棒として雇った農民たちこそ主役だという事が明らかになる。

そういえばと友人が話していた武士道に関する本の話題を思い出した。友人が話していた内容はこんなものだったと思う。「士農工商、つまり武士の次に来るのは農民な訳、お金を稼ぐだけの商人は卑しいという事なの。農民は作物を作り出すけど、商人は金を稼ぐだけなんだよね。では、武士というのは何なのかと言うと、武士は食わねど高楊枝では無いけど、お金を持つ必要は無い訳、物事をやるやらないを決断するだけ。この決断、やると決めたらやるのが武士だと言う事なんだ。」この後、友人はこの決断について、現状の生活に引き寄せて話していた。

「羅生門」では武士の妻真砂を演じた京マチ子が妖しげな美しさを放っていたが、本作でも野武士にさらわれた農民の女房演じる島崎雪子が、火がつけられた山塞*1でニヤリと笑う顔が忘れられない。

雨降るなか暇を持て余し「女でも抱きたい」と呟けば、「身体を動かしてくる」と飛び出し雨に濡れながら刀を振る侍を演じる宮口精二が格好良い。また所狭しと動き回る菊千代演じる三船敏郎が印象に残る。

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*1:さんさい。盗賊等が山中に築いた城塞をを意味する。

2015年8月24日~2015年8月30日

外は意外にも涼しかった。自宅から百メートル程歩いたところでベルトを締め忘れた事に気がついた。来た道を引き返す。

女性が着ているポロシャツがおそらくそのまま会社のユニフォームだった。エンジニアらしい。

若い男女の睦まじい様を眺める。耳許で流れる音楽はそんな事を意に介さない。

急に涼しくなり落ち着かない。もう秋が来てしまう。

喫茶店の隣に座った人々が東日本大震災に遭遇した時の事を話し始めた。あれから四年経っている。

どうにも職場で色々と動きがある。異動は無いにしても近い将来今の業務から離れる事になりそうだ…と考えていたところ、翌日に上司たちに呼び出され、隣席に座っている同僚が長期出張の候補である事を報告された。業務内容は多忙を極めるので安堵すべきなのだろうが、これからの会社での立場を考えると惜しいと言ったところか。よくよく考えてみれば、こういった時の為にさっさと夏休みを使ったのだった。どちらにせよ仕事については、早い時期に鑑みるべき必要があった。

電車に乗り込むと子どもが母親の脚元にしがみついていた。おそらくこんな関係は一瞬の事なのだ。

涼しくなり、曇天の空模様が眠気を誘う。

テニスバッグを持った日焼けした十代の女性の若さに眩しさを感じた。

安全確認の為に停まった電車。停まった理由はイヤフォンから流れる音楽に遮られている。約束の時間に間に合わないかもしれない。駅員が構内を走る姿が見える。

時間には何とか間に合ったものの、最後の一人だった。今日は事務所の同僚の送別会と各事務所合同の懇親会だった。久しぶりに刺身を食べたが風情も無く酒も飲める状況でも無い。無難に切り抜けたというか、手応えにいちいち欠ける時間となった。

送別会と懇親会の帰路、電車に乗るのが煩わしくなり一駅程歩いた。人気の無い住宅街を歩く。耳許のイヤフォンではクラシックギターが鳴り続けている。

風と共に去りぬ

ヴィクター=フレミング監督作品『風と共に去りぬ』を観た。

最近翻訳家である鴻巣友季子がマーガレット=ミッチェルの原作の新訳を発表して話題のようだ。私はヴィヴィアン=リーを観る為に本作を観たのだが、その半生を描いた本作はとても長かった。

南北戦争によってアメリカ南部の栄光が風と共に去ったというのが本作の題名の意図したものらしい。実際、本作前半のアメリカ南部は美しく、ドレスを纏った女性たちを隠そうとするかのように茂る庭の広葉樹は豊かさの象徴とも見て取れる。

スカーレット=オハラは非常に激しい気性の女性として描かれているが、それ故に生命力に溢れている。とても尋常ではないと思える程に。窮地に追い込まれた末の「明日考えましょう」という台詞には笑ってしまう。ヴィヴィアン=リーの美しさを語った教授はこんな事を言っていたと思う。「ああいう場面で「明日考えましょう」なんて普通言えないよ。でもね、そういうものなんです。その事しか考えられないとかそういった時にはね、思いきり電柱に頭をぶつけたり、高い料理でも食べて「あ~食べた、満腹」なんて言って、その後に後悔すれば良いんです。意識をずらしてやれば良いんです。大抵の悩みなんてそれで解決ですよ。概してそんなものなんです。普通言えないよ、でも「明日考えましょう」で良いんです。」

クラーク=ケーブル演じるレット=バトラーが非常に格好良かった。またテーマ曲は改めて素晴らしいと思った。

「欲望という名の電車」と本作について考えていると現実に即する事が必ずしも「自分の心の内」を満たす訳でも無い事が判ってくる。なるほどスカーレットはより現実的だが、しかし内心の変化に気が付く事は出来なかった。またブランチはおそらく現実に即するべきだと知っていた。でなければ過去を暴露される事もなかった。しかし内心を無視する事もまた出来なかったのだ。

取り敢えず明日考える為に我々は寝るべきだと思う。

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欲望という名の電車

エリア=カザン監督作品『欲望という名の電車』を観た。脚本はテネシー=ウィリアムズ。

学生の時、病跡学の論文を読み進める講義があった。論文はたいてい著名な芸術家等が対象になっていたのだが、フィクションである本作のヴィヴィアン=リー演じるブランチが対象となっているものがあった。ここでこの講義を受け持つ教授はヴィヴィアン=リーの美しさについて饒舌に語った。おかげでブランチがどのような症例だったかはすっかり忘れてしまっている。

上記の論文を読むまでも無く、画面に現れたヴィヴィアン=リー演じるブランチは何やら不穏な空気を纏っている。言動のおかしさ、名家気取り、若い男性に対する好奇心、どれもがブランチの実情からずれている。特に若い男性に対する興味を抑えられない様は心苦しい事この上ない。実情に即した着地点であろうミッチとの結婚も、妹ステラの夫スタンリーによる過去の暴露によって破談となり、加えてスタンリーの暴力によって、ブランチは遂に精神の均衡を崩してしまう。

自らの実情に即するとはどういう事なのか、自分に対する脇の甘さが垣間見える時、ブランチが他人事では無いと思えてくる。

羅生門

黒澤明監督作品『羅生門』を観た。

羅生門に通り雨が降り注いでいる。そこに雨宿りの為に男がやってくる。門の下には放心状態の杣売り*1と旅法師がいた。杣売りと旅法師は自身が関わったある殺人について語り始める。検非違使に引き連れられてやって来た事件の当事者たちは、殺人のあらましを語るも、それは全て異なった証言だった。

思うに人は、それぞれの立場に左右され、またそこに意識的にか無意識的なのか、より自らを有利にし、かつ自身の正当性をこしらえようとする。これをエゴイズムと言うのかもしれないが、であればそれ無しで人は生きるのもまた個人のレベルでは困難だろう。これが公共性の方へ高まるにつれ、客観性が必要となるのだと思う。

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*1:木こり。

2015年8月17日~2015年8月23日

隣に立っている十代の女性が捲る単語カードに目をやると poison とあった。なぜ俺が見た時に限って、という思いが拭えない。

客先に向かう途中、須藤元気を見掛ける。たぶん、あれは須藤元気だと思うのだが、別段感動も無く、興味が無いという事がよく判った、

エスカレーターからそのまま到着した電車に乗り込むと、何やらアンニョイな雰囲気を醸し出した乗客ばかりである。

曇り空だった。ベンチがあるにも関わらずアスファルトにそのまま腰を下ろす年老いた現場作業員の男性を横目に煙草を吸う。

客先の女性担当者の一人と同じ電車に乗り合わせた。適当に話してみるものの、どこか噛み合わず、また踏み込んだ会話も出来ないまま、下車駅に着いてしまった。

土岐麻子を聴いた後、何となく女性ヴォーカルを聴きたくなった、坂本美雨や小田朋美のアルバムを続けて聴いたところ、改めて良いと思った。特に小田朋美の谷川俊太郎の詩を唄った雨よ降れの緻密な音の構成は詩の世界を余す事無く表現していた。

両親に連絡を取る。残暑見舞いは届いたという。同封したのは両親の故郷であった満州への移民運動に関する新聞記事だった。父はどうにか老眼鏡でその新聞記事を読み進めていると言う。父によれば祖父は満州国憲兵なりの役職に就いていたのだという。既に他界している為、詳細は判らず、新聞記事の内容が関係あるかどうかも判らない。

更に父の家系はなかなか複雑になっている。父には二人の兄と姉がいるのだが、若くして長男は亡くなり、次男が事実上の長男になるものの、母には兄弟が居らず、姉妹は既に結婚していた為、この財産を継ぐ事を目的として母の家系の養子になった。つまり母の息子ながらも弟となった。こうして父の家庭には、二つの家系が混在する事になった。一人だけ別姓を名乗っていた兄は自らの境遇を面白く思わなかったようだが、既に鬼籍に入るに至る。

平野啓一郎のマチネの終わりの連載を読んでいる。クラシックギタリストの男性と新聞記者の女性の恋愛が進むなか、男性を慕うマネージャーの女性が自らの想いが報われない事実と向き合っている。心苦しいものの、誰にでも訪れる局面であり、また彼女の言う通り、主要な登場人物たちの為の端役を引き受けるという事そのものだった。彼女は自らの気持ちを整理するべく、傍から見れば嫉妬による意地らしい行動を取りつつある。しかし、おそらくは、そんな彼女もまた自らが主人公となる舞台の上では、誰よりも輝くはずであり、今は自らの想いが報われず傷ついた事に気がつくべきだった。

スーパーでワインとリンゴを買い物カゴに入れた若い女性を見掛ける。その後、コンビニに煙草を買いに入ると、先程の若い女性がコンビニでしか売っていないアイスを買っている。ワイン、リンゴ、アイス…もしこれが彼女の夕飯であるならば、翌日は腹痛になりそうだ。

修羅の門ジョジョリオン、セケンノハテマデの新刊を読み終える。

アルカジー&ボリス=ストルガツキー兄弟のモスクワ妄想倶楽部を読み終える。本作はみにくい白鳥と合わせてびっこな運命という一つ作品として出版されたのだという。著者の作品を読む為に版切れの作品を古本屋等で購入しているものの、本書でも言及される滅びの都は手に入るか怪しい。ラドガ壊滅に至っては二万円以上する。図書館で借りるというのが次善の策であるものの、読む時間を決められるというのは今となっては不愉快極まり無い。よくもまあ、学生の頃は二週間やらで本を一二冊の本を読み終えていたものだと思う。

スマートフォンを忘れた為にジムのモニターの音声を聴く事にした。女子ゴルフの試合を眺めるのだが、赤いワンピース調のウェアを着た金田久美子が映える。テレサ=ルーの18ホールのイーグルはバックショットでイン。優勝は服部真夕だった。

アメリカン・スナイパー

クリント=イーストウッド監督作品『アメリカン・スナイパー』を観た。

本作はイラク戦争にて狙撃手として従軍し「伝説」と呼ばれたクリス=カイルを主人公としたものである。
女性子供をためらいながらも射殺する。軍人であり、伝説と呼ばれた狙撃手が主人公なのだ、当たり前の光景ではある。しかし、監督であるクリント=イーストウッド「グラン・トリノ」に於いて暴力を放棄してみせたはずだった。本作の違和感は、過去に示された作品との距離感にあり、またこの物語が淡々と肯定的にも否定的にも戦争を描写せず、メッセージ性を読み取り難いところにあった。
ライバルであるイラク人の狙撃手を射殺した後*1、彼はアメリカに戻り、戦争の後遺症に悩まされながら、医師の紹介によって傷痍軍人との交流を始める。この交流が射撃場で行われているのにはハッとさせられる。戦争の記憶を遠ざけるのでは無く、同様の経験を共有し向き合う場なのだろう。しかし、その射撃場で、主人公はやはり戦争の後遺症に苦しむ若者に射殺されてしまう。エンディングには彼が葬送される様が流される。正直に言えばどのような感慨を持てばいいのか判らなかった。ただ意外にも忘れていたのは、戦争に行きその場で死ななければ、日常に戻り生きて死を迎えなければならないという当たり前の事だった。

*1:この戦いのシーンが余りにもフィクションという感じがしたので少し興醒めした。

2015年8月10日~2015年8月16日

雨が降るという予報が出ている。よく見れば路面が濡れている。

電車の乗客が明らかに少ない。世間はお盆休みという事らしい。思わずため息を吐きたくなる。

洗濯物を干した後、着替えていると汗が噴き出した。駅に着く頃には汗塗れになり、我ながら呆れてしまった。

電車は乗客は少ないにも関わらず停止信号で停まってばかりいる。同僚に乗り換え時間が短い為に駅に早く着いてしまうので無いかと言う考えを示すと、おそらく乗客が少ない為に電車の速度が上がっているのでは無いかと言う。発車の初速はそんなに変わるのかと問えば、変わりますとも言う。もちろん、どちらでも構わないのだが。

仕事も無くさっさと家路に着くと浴衣姿の女性を多く見掛けた。翌朝、画像共有サイトを眺めていると花火の写真が無数に挙げられている。花火大会があったらしい。夏も盛りといったところだろうか。

どのようにすれば冷静になれるのか。考えてみたところ、給与明細を眺めている時こそ冷静だと気がついた。朝からお盆休みで仲睦まじい良い歳の男女を見掛けた。そこで給与明細を思い出してみる。するとそんな事で感情にさざなみを立てている場合では無い気がしてくる。この方法を同僚たちに話してみたところ、「気落ちする」「テンションが下がる」「むしろ怒りが沸いてくる」と給与明細にそれぞれの想いがある事が判った。

バカンス中の外国人が電車に乗り込んで来た。サングラスを外した男性がキアヌ=リーブスに似ていた。よくよく見ると女性も顔立ちが整っている。化粧もせず服装がラフだと美男美女でも人混みに隠れてしまうものらしい。

あるラーメン屋の記憶がある。果たして一度行ったのか、夢の中で出来事だったかはっきりしない。地下にある、味はまあまあの店だったという憶えはあるのだが、果たして実在するのだろうか。

ジムのモニターにて作新学院九州国際大学付属の試合を眺める。共に守りが固くヒットはあるものの得点につながらない。しかしソロホームランがあり、この一点を守った九州国際大学付属が勝者となった。試合の合間に桜島の噴火情報、終戦記念日に関するニュースが続く。

アップリンクが戦後七十周年で無料公開していたアルマジロという作品を観た。見応えのある映画だった。

両親に残暑見舞いがてら書類を送付する為に作業していると友人からメールが届いていた。

友人と共にてんぷら屋に入る。日本酒と共に夏野菜のてんぷらと天丼を食べたのだが薄味でしつこく無く美味だった。それにしても昼間から友人と共に飲む酒ほど美味いものは無いと思う。

酔いと暑さを免れる為に喫茶店に入る。友人は Sons of Anarchy というバイカーギャングを扱った作品を楽しんでいるらしい。冷房で酔いが冷めたところで店を出た。

公園の芝生の上で陽に身体を晒す。数多のトンボが目の前を飛び去っては戻って来る。外国人を含み、皆思い思いの時間を過ごしている。空と芝生を仰ぎながら友人と話していると、学生時代が思い出されて来た。政治的な話題をしてお茶に濁された事、学んだ事とは真逆の生き方をした友人、当時考えも出来なかった現在の自分の姿。表出した過去との距離をはっきりと感じるばかりだった。

2015年8月3日~2015年8月9日

夜、台所の電気を点けていた為か、蝉が窓の外で鳴く。電池が切れかかったのか如く、鳴き声が弱まっていく。ここで鳴いている場合で無いだろう、何よりうるさい。窓を叩くと格子に止まっていた蝉はビビッと鳴き、飛び立った。

目の前に Juice=Juice のミュージックビデオをスマートフォンで眺めている女性がいる。

ストルガツキー兄弟の作品を手に入れようと古本屋に出向いたが少し値が張ったので遠慮してしまった。大抵、ここで買い逃す形になるのは知っているのだが…

吊革広告を眺めていると間違い探しの問題があった。答えが気になりスマートフォンでサイトにアクセスするもSNSのアカウントが無ければ先に進めない仕様になっていた。最早広告も人を選ぶ。仕方無くブラウザを閉じた。

駅を出ると陽が落ち、街並みの影の上に線形の連続した色の変化が表れ、黒い入道雲の影が一瞬光りを放った。

アルカジー&ボリス=ストルガツキーの神様はつらいを読み終える。これを原作としたアレクセイ=ゲルマン監督の神々のたそがれより嫌な余韻に浸らせてくれるのは意外な発見だった。

深夜に目を覚ますと、蝉のか細い鳴き声が聞こえ、いつしか途切れてしまった。

現状の政治的な言動―現実的、理想的、その他諸々の考えと共に見られるのは、自身が当事者だという考えである。この当事者性は東日本大震災後に誰もが被災者となってしまった事や、SNSで個人として意見を表明する事が容易になった為だろう。この当事者性の発見もしくは自覚は、結果としてその後の政局に影響を与える事になった。この事態にどうにも苛立ちを覚えるものの、何が原因なのかは答えを出せない。知識不足による無理解、罵詈雑言とも言える交渉、聞いてもいないのに表明される主義主張、または主義主張を表明しろという事にだろうか。そもそも『「引き受ける事などしたくないのだが、」これが現実なのだから、それに相対する為に必要な事なのだ。』とでも言う、「準備された」消極的な当事者性は机上の空論に過ぎないという事なのだろうか。

土岐麻子の Bittersweet を聴いている。四十代前後の女性の感情を描いた Beautiful day 、アナと雪の女王の Let it go のアンサーソングともいうべき Don't let it go が素晴らしい。

アレクセイ=ゲルマンの神々のたそがれについて調べていると名画座で過去の作品が上映される事を知った。どうやら彼は長い生涯の間に五つしか作品を残していないらしい。上映スケジュールを見ると全作品を観る事は難しそうだった。

この季節、浴衣姿の女性を見掛ける事も少なく無い。綺麗だと思う。概して無関係なのが悔やまれる。

アレクセイ=ゲルマンのフルスタリョフ、車を!とわが友イワン・ラプシンを観た。フルスタリョフ、車を!は誰が誰だかも何が起こっているかも判らず眠気に襲われた。眠気で視点の合わないスクリーンを眺めながら、昔の事が思いだされて来た。わが友イワン・ラプシンはハードボイルド的な要素があった為かそんな事態は避けられたのだが。

ジムのモニターにて高校野球を眺める。中越滝川第二だが序盤は一対一の攻防となり、その後どちらかがまた一点リードする形になった。この炎天下の午後、過酷な試合だと思う。

駅前に大きな荷物を背負った外国人の少女が二人立っていた。三十代の女性が何やら英語で話し掛けている。滞在先の主だろうか。少女の鞄にポーリッシュワールドスカウトとある。ガールスカウトとしてこの蒸し暑い日本を訪れたのだろう。二人は涼しげで美しいのだが、余りに無防備にも見えた。

神々はたそがれのパンフレットで、昨日観た映画の解説を眺めていたところ、「その後、主要な登場人物が粛清される運命にある事を示唆している。」とあり驚いた。しかしソ連邦の歴史にそこまで理解があるはずも無いのだ。

神々のたそがれ

アレクセイ=ゲルマン監督作品『神々のたそがれ』を観た。原作はアルカジー&ボリス=ストルガツキー著「神様はつらい」になり、早川書房の「世界SF全集 24 ゴール、グロモア、ストルガツキー兄弟」に大田多耕訳が収められている。
まず、中原昌也のコメントが傑作なので紹介しよう。

久々に登場したSF映画の名作。宇宙船もタイムマシンも出てこない、汚泥と殺戮の蛮人オリンピックが今、開幕!かつてギュネイは『路』で獄中からシャバの映画を撮ったが、ゲルマンは死後の世界から現世についての破壊的傑作を撮ってみせた。即、金メダル授与内定!!死んだもん勝ち!!

このノリノリのコメントを読む度に笑ってしまう。そんな中原昌也Hair Stylistics 名義で本作音源の Remix を製作している。これはパンフレット付録として限定販売されていた。おそらく上記の通り、汚泥と殺戮の効果音が採用されているのだろう。

地球より八百年程進化が遅れた惑星に派遣された地球人たち。彼らの目的は未開の惑星の人々に溶け込み情報を収集する事だった。アルカナル王国はルネサンス初期を思わせる城が建っていたものの、ルネサンスは実現せず反動化が進み、大学が破壊され知識人狩りが行われた。知識人狩りを主導したの王権守護大臣ドン=レバの分隊であり、灰色の服を着た家畜商人や小売商人から編成されていた為に灰色隊と言われた。灰色隊の勢力は勢いづき、王の護衛隊さえ押しのけられていた。
第十七代貴族ドン=ルマータは地域の異教神ゴランの非嫡出子とされ皆から恐れられていた。しかしその正体は惑星に派遣された地球人だった。ドン=ルマータは知識人を匿うべく努めているところ、隣国イルカンから訪れるはずだった聡明な医師ブダフが王国領内で行方をくらました事を知る。

本作に状況説明は上記のようなもの以外ほとんど無く、モノクロの映像から物語を読み取るしか無い。視線は映像の取捨選択が出来ず、ただただ膨大な映像を眺める事になる。実際、物語の理解はパンフレットの映画評論家である遠山純生の解説に多くを負っている。この解説はアルカジー&ボリス=ストルガツキーの原作と比較しながら内容を追ったものとなっている。映画鑑賞時は未読だったが、現在は古本屋で原作を手に入れ読み終わったところである。物語の筋はほとんど変わらないが、映画と原作では全く違う感慨を抱く事になった。

…ハリボテの小屋に降り積もる雪、走り疲れ腰を下ろす巨体の男、カメラを見つめる原住民たち、解体された肥溜めの小屋から飛び立つ雀、罵倒されながら肥溜めで処刑される読書家、鉄靴にこびりついた汚泥、笛の音色、灰色の野蛮人、天井から吊るされたカメラを遮る紐、主人に集まる鎖に繋がれた奴隷、原住民と見分けのつかない地球人たち、愚かにしか見えない貴族の恋人、酔いのまわった威勢良い貴族、吹き上がった炎の影で真っ二つに斬られる椅子、クーデターによりバラバラに解体された幼い皇太子と裸の乳母たち、貴族の正体を暴こうとしながら恐れる大臣、灰色隊に成り代わる神聖軍団、肩に載るフクロウ、空中に吊るされ泣き叫ぶ女性、吊るされる貴族、血を顔に塗る貴族、お手上げだとカメラを見つめる貴族、首をくくられ風に揺れる知識人たちの亡骸、聡明な医師との虚しい問答、無数の矢に射られた貴族、恋人の突然の死、牛を模した兜を被る地球人、街を覆う死体の山と王権守護大臣の腹から飛び出す内蔵、疲れ果てた地球人、地球に帰らないと語る地球人、奴隷と共に何処かへ向かう地球人、笛の音…

王権守護大臣諸共街の人々を皆殺しにしたドン=ルマータ。映画では、もはや人の醜さ、どうしようも無さを嫌ほど知ったはずにも関わらず、未開の惑星に残ると仲間の地球人に語る。最早、彼は未開の蛮人となったのか?しかし彼は奴隷に鎖を好い加減に外せと言いながら笛を吹いている。
一方、原作のドン=ルマータは地球に帰り、幼なじみと再会を果たす。しかし幼なじみは、ドン=ルマータと名乗っていた男の手が赤く塗れている事に気が付き―それは野苺を摘んでいた為だったのだが―差し出した手を元に戻してしまうのだった。

2015年7月27日~2015年8月2日

早めに目覚めジーンズを洗い干す。遠くから猫の鳴き声、一軒家から女子高生が自転車で出掛ける物音が聴こえる。

着替えて自宅を出る。一気に汗が噴き出る。駅構内の入口で手を繋いだ男女を見掛け正気かと思う。

スタニスワフ=レフの完全なる真空を読み終え、群像社から出版されているアルカジー&ボリス=ストルガツキーの著作を読みに掛かる。まず地獄から来た青年を読んだのだが、アレクセイ=ゲルマンの神々のたそがれの原作となった神様はつらいと同様、地球人が発展途上の惑星に干渉を図る一連のシリーズものだった。神様はつらいが、中世の反動期の最中を思わせる惑星で知識人を救い出そうとする地球人を描いたものに対し、地獄から来た青年は、第二次世界大戦を彷彿とさせる争乱の最中の惑星の叩き上げの特殊部隊員が、地球人が惑星に干渉し戦争を終結に導く様を茫漠と見守る姿が描かれている。

帰路、朝良く見掛けるスーツ姿のだらしない男がこれから仕事に出掛けるようだった。疲労の表情を浮かべた顔に、日々の倦み、それぞれの生活を思い出させた。

ヒアージョでは無くアヒージョだった。恥ずかしい。

交差点の向こうで中年男性が連続でくしゃみを三回した。

路上で猫を見つけ顎の下を撫でると気に食わなかったのか爪を立てられる。しかし年寄りの為か跡に残るような力は無い。なかなか利口だなと背中を撫でると毛が抜けて行く。後ろから見知らぬ女性が現れ「可愛いですよね。」と猫を撫で始める。「そうですね。この無愛想な感じが良いですね。結構太ってますよね。この猫は。」「茶トラの猫って太りやすいらしいんですよ。」「へぇ。」差し障りの無い会話を打ち切りその場を後にする。女性との会話より猫を愛でたいだけだった。何より好みの女性で無かった事が残念でならない。

満員電車の中では中年男性の耳の中を凝視する羽目になる事も珍しく無い。飛び出した耳毛、産毛、耳垢、胃から吐き出される発酵臭。

平野啓一郎のマチネの終わりにの連載を読む。イラク戦争の取材から帰国後、PTSDを負った女性が医師に尋ねる。「過去は変えられる、という事ですか?」医師は「そう、あなた自身の今後の生活によって。良い表現ですね。」と応える。

表情一つで何もかも変わってしまう。ただ言葉さえ交わせれば済む話で、下手な考え休むに似たりだと思う。

古本屋でアルカジー&ボリス=ストルガツキーの神様はつらいが所収された世界SF全集第24巻を手に入れる。この上無く嬉しい。

足元にスーパーボールが転がって来た。拾い上げてみるものの、人混みで子どもの姿が見えない。隣の男性と思わず目を合わせ苦笑いをする。電車が駅に着くと座席に座る親子が見える。隣に立っていた男性が渡してくれるという。スーパーボールは小さな持ち主の元に戻ったのだった。

ジムのモニターを眺めていると芥川賞を受賞したお笑い芸人の祖父に関するテレビ番組がやっていた。特段現状の芥川賞に興味は無いのだが、力ある新人作家が多くの人に知られるきっかけにはなっており、それだけでも有用なのでは無いかと思う。さて、番組で祖父の足取りが追われるなか、自らの祖父について少し考えた。両親から話を聞けば、物語は第二次世界大戦後から始まる。父の両親は満州から日本に戻り、母の父はシベリア抑留の後、日本に戻った。最近、ある新聞記事の特集を読んだところ、両親の実家がある山形県は満州に多くの人を送り出そうという運動があったそうである。おそらく祖父母はそういった世の中の流れに身を投じた人々だったのだ。チャンネルを変えるとテレビ東京でエイリアンVSプレデターが放映中だった。改めて観るまでも無いとチェンネルを変えた。

日中の陽射しが肌を焼く。買い物に出掛けると夏休みを謳歌する十代の子どもたちが目に付く。存分に楽しめば良いと思う。

散歩がてら買い物に出掛ける。西の空から雨雲が広がり陽射しは弱い。おそらく西では雨が降っているのだろう。公園のトラックは解放されてがらんどう、ホースで水を撒く男性を上半身裸である。川沿いの公園では猫が身体を伸ばして横になっている。

アルカジー&ストルガツキー兄弟のそろそろ登れカタツムリを読み終える。日本文学研究者だったアルカジーは小林一茶の俳句から題名を採用したそうである。

ネット上で読めるワンパンマンとしんそつ七不思議という漫画を読んだのだが面白かった。その他にもサチコと神ねこ様という四コマ漫画逐次読んでいる。こうやって思い返すと生産性が全く無いが面白おかしく毎日過ごしているのだなと思う。

陽が落ちるにはまだ早かったが散歩に出た。昨日とは違い雲も無く陽射しが強かった。公園を横断し川沿いの遊歩道に出向くと、体操服を着た肌の焼けた十代の男女が横を通り過ぎて行く。色々な事が思い出されて来る。遠くから聞こえてくる笑い声、誰も居ない運動場、静寂に包まれた教室。疎外感とさえ言えたかもしれない肌身に残った感覚が、今となっては郷愁を誘うのだから適当なものだと思う。久しぶりに歩く川沿いの堀と木々に無数の蝉の抜け殻を見つけた。蝉の鳴き声が響くなか、止まり木を探し彷徨う蝉をカラスが捕らえて飛び去った。陽が傾き始めたところ、川沿いのベンチに男女が座り、女性の腕は男性の肩に周り、二人の顔が親しげに重なった。仲が良いのは結構な事だが、この暑さに正気かと思う。

ゼロからトースターを作ってみた

トーマス=トウェイツ著、村井理子訳『ゼロからトースターを作ってみた』を読んだ。
翻訳者のブログやtwitterがとても面白く、どんな作品を翻訳しているのか興味を持ったのが本書を手に取った理由である。

本書はイギリスの大学院生が卒業制作の為にゼロ―原材料からトースターを作るプロジェクトの顛末を報告したものである。これが滅法面白く、原材料を手に入れる為に鉱山に出掛けたり、原材料を試行錯誤して加工して行く過程がウィットに富んだ文章で描かれる。小規模な技術を採用しようとすると古い技術が必要になるというのはなるほどと思った。

著者のTEDでのスピーチ。本書の概要が判る。設定で日本語訳の字幕を表示可能。

ゼロからトースターを作ってみた

ゼロからトースターを作ってみた

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