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『ニンフォマニアック Vol.2』

ラース=フォン=トリアー監督作品『ニンフォマニアック Vol.2』を観た。

Vol.1の続き。女性の語りは更に続く。これはVol.1の内容かもしれないが、死を前にした父は病院のベッドで錯乱するなか、別れた母の名を呼ぶ。それを前にした彼女は病院で働く男性を誘い移動式ベッドの上でセックスをする。再会を果たした初体験との男性との間に子どもが出来、オーガズムの影響を気にした彼女は帝王切開で子どもを産む。その後もセックスを求める彼女に夫は応える事が出来ず外注するよう伝える。黒人男性とセックスの望んだ彼女は通訳を雇い道端の黒人男性をホテルに誘う。ホテルにやって来たのは二人の黒人男性。しかし下半身を露出した黒人たちは彼女を前にしてヴァギナとアナルへの挿入-ペニス同士の接触快感!で議論を始めてしまい、彼女はその場を後にする。更にサディズムを専門とする男を訪れ再三拒否されるなか遂にプレイに及ぶ。しかし夜半の外出中、子どもがあわやベランダから落ちそこねるという「アンチクライスト」のような事態が起きる。これに激怒した夫は「それでもセックスを求めて子どもを置いて出掛ける」と語り離婚する。勤務先の上司の命令でセックス依存症を治すセラピーに通うも最後には自分は色情狂だと宣言した彼女はその後、男の秘められた欲望を喚起し辱める借金取り立て人となり成功する。しばらくすると上司は仕事を後進に譲るよう勧める。自身の身代わりになる後進に選ばれたのは身体にコンプレックスを抱く少女。足繁く彼女の元を通い身元引受人になるが、少女は彼女を求め応じ彼女は涙を流す。身元引受人になったのは自身の身代わりの為である事を話しても少女は「そうじゃければ出会えなかった」と意に介さない。仕事にパートナーになった少女と共にある家を尋ねようとすると元夫の家である事が判り、動揺した彼女は少女一人で仕事をするように言いその場を後にする。その後、仕事を少女に任せるようになった彼女はある予感を察知し元夫の家を尋ねる。すると窓から見えたのは裸の少女と元夫が愛しあう姿だった。途方に暮れた彼女は、拳銃を取る。路地裏に潜み少女と共にいる元夫を殺そうとするも安全装置は外さなかった為に失敗、殴り倒された彼女の前で元夫は自身の初体験と同じように少女を同じ回数ペニスで突く。そして少女は尿を彼女に垂らしてその場を後にする。そして行き倒れているところに老人がやって来る。話を終え、明日からまたやり直そうと語る彼女。しかし眠る彼女の元にズボンを抜いだ老人がやって来る。これを拒否した彼女に老人は「何度も男とセックスして来た癖に」と言い放つ。画面は暗転し、安全装置が外された拳銃の数発の発射音の後、部屋を出て行く彼女の足音が聴こえるのだった。

まず第一に確認したいのは主人公の女性は色情狂と語るも自分が望まないセックスは一切しない。これを勘違いした彼女の物語の解釈もといこじつけていた老人は拒否され死ぬ。尚、この老人は作中で童貞である事を告白している。老人は概念を弄ぶ事を好むオタクであり童貞なのである。正直この老人は他人事では無い。
さて既に本作は解釈する事に意味が無く、例え解釈してもこの惨めな老人になるしかないと指摘済みである。しかし二村ヒトシの「なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか」は正に主人公の女性の行動を説明しているのでは無いかと思う。彼女は愛を欲さないと言いセックスし続ける。しかし結局自分には愛が無いという事態を意識さぜる得ない事には変わり無い。その代わりにセックスをし続けている。しかも一般にセックスは愛情を伴うものとして扱われるが、彼女は愛を求めないと宣言する事によって、セックスの虚偽を明らかにし続ける。つまり彼女はセックスをすればするほど、愛は必要無いと認識し、その代わりにセックスを求め続ける事になる。彼女に救いは無いようにも思える。しかし結局外部に拠って立つ処が無ければ-現代にそれが無い事は明白だが-自身で拠って立つ処を必要とする。たまたま彼女はセックスだっただけに過ぎない。
また本作の音楽が素晴らしかった。タルコフスキーもBGMに使用したバッハの「「われ汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ」Choral Bwv 639」、ラムシュタイン「Führe Mich」、シャルロット=ゲンズブール はジミ=ヘンドリクスの「Hey Joe」をカバーしている。詳細については別記事に譲る。