ルーヂン/ビガーソフ

夏の暑さとつまらない仕事に追われ、帰宅後に椅子に身を任せていた。気分を変えようと、枕元から片付けてサイドテーブルに積んだ本と雑誌の中からからツルゲーネフの『ルーヂン』を手に取った。『ルーヂン』はSNSの復刊情報を下に購入した。岩波文庫表紙の概要は以下の通り。

二葉亭四迷訳「うき草」の題名によって明治以来わが国に知られてきた名作。女地主ダーリヤの邸に現れた一人の男ルーヂン。人々の前では博学多識をふり廻すが、しょせんは意志の弱い冷淡な知識人に過ぎず、のちに革命の理想だけを抱いてあえなくも死んでゆく。今日でもなお見られる知識人の一タイプを示す。1855年作。

本書の購入後、村上春樹の著作群を読み直していたところ、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」のハードボイルド・ワンダーランドの章において『ルージン』が言及されていた。主人公は拷問を受けて傷付いた体で、ツルゲーネフの『春の水』を読もうと思いつつ、代わりに破壊された廃墟のような部屋で見つけた『ルーヂン』を読み、こんな感想を語る。

私が『ルーヂン』をこの前読んだのは大学生のときで、十五年も前の話だった。十五年たって、腹に包帯を巻きつけられてこの本を読んでみると、私は以前よりは主人公のルーヂンに対して好意的な気持ちを抱けるようになっていることに気づいた。人は自らの欠点を正すことはできないのだ。人の性向というものはおおよそ二十五までに決まってしまい、そのあとはどれだけ努力したところでその本質を変更することはできない。問題は外的世界がその性向に対してどのようの反応するかということにしぼられてくるのだ。ウィスキーの酔いも手伝って、私はルーヂンに同情した。私はドストエフスキーの小説の登場人物には殆ど同情なんてしないのだが、ツルゲーネフの小説の人物にはすぐ同情してしまうのだ。私は「87分署」シリーズの登場人物にだって同情してしまう。たぶんそれは私自身の人間性にいろいろと欠点があるせいだろう。欠点の多い人間は同じように欠点の多い人間に対して同情的になりがちなものなのだ。ドストエフスキーの小説の登場人物の抱えている欠点はときどき欠点とは思えないことがあって、それで私は彼らの欠点に対して百パーセントの同情を注ぐことができなくなってしまうのだ。トルストイの場合はその欠点があまりにも大がかりでスタティックになってしまう傾向がある。

『ルーヂン』の冒頭を読み進めたところ、古典によくあるようになかなかルーヂンその人は登場せず、その他の人物の描写が進む。翻訳調の文章の心地良さを味わいつつ、女地主ダーリヤのサロンの客の一人アフリカン=セミョーヌイチ=ビガーソフの紹介に大笑いした。

このビガーゾフ氏というのは妙な人物だった。世の中のことがなんによらず癪にさわり、とりわけ女が眼のかたきで、朝から晩まで人と口論ばかりしているという男で、なかなかうがったことを言うかと思うと、かなりいい加減なこともあったが、それで当人は結構いつも楽しいのである。彼の怒りっぽさは児戯に類するほどのもので、その笑いも、声の響も、その存在そのものまでがまるで癇癪で育ったかと思えるほどだった。ダーリヤが好んでビガーゾフを寄せつけていたのもこの男の奇人振りがなぐさみになっていたからのことで。その突飛な言行はたしかに結構なぐさみになった。なんでも大袈裟に誇張したいのがこの男のやむにやまれぬ情熱というもので、たとえば眼の前でなにか災難の話でも出て、落雷で村が焼けたとか、水車が水びたしになったとか、百姓が斧で片手を切断したとかいう話を聞くと、彼はいつも必ずただもう頭から憎しみをこめてこう訊ねるのだった―で、その女はなんという名前なんです?―つまり、その災難をひきおこした女は誰だということなのだが、彼の確信するところによると、すべて災難というものは必ず女が原因をなしているのだから、これだけはとくと究明してみなければいけない、というのだった。ある時なども、彼は是非ご馳走をしたいからと招いてくれたほとんど面識もない貴婦人の前にいきなりひざまずくと、涙まで浮かべて、しかも満面に怒気をおびて、自分はなにもあなたに悪いことをした覚えはないからどうか参上することはゆるして頂きたいと懇願し、これからは決してお宅へは伺いませんからなどと言い出したりした。