2022年7月18日/再読する生活

令和4年5月末、稲垣諭の『絶滅へようこそ 「終わり」からはじめる哲学入門』 を読み終えた。私の記憶に間違いがなければ、著者は私が大学3年生にあたりに助教授として赴任してきたと思う。特に講義を受ける機会は無かったものの、河本英夫が講義中に「彼は文章が書けるんだ。上手い文章を書ける才能があるんだ」等と褒めていたことが印象に残っている。今回はたまたま著者の最新刊の発売を知り、題名が興味を引いたため手に取ることになった。天の川銀河級の視座の獲得を目指した本書は非常に面白く、著者のその他の著作も読みたいと思うものだった。

さて、上記掲載書の終盤には本書の要とも言える村上春樹論がまとめられており、村上春樹の物語の主人公の印象を変えるものだった。非常に刺激的で面白く、以前から十代の頃に適当に読んでしまった村上春樹の著作を読み直したいと思っていたこともあり、本書の読了後に『風の歌を聴け』、『1973年のピンボール』、『羊をめぐる冒険』、『ダンス・ダンス・ダンス』の鼠三部作もしくは羊四部作を読み直した。そもそもこれらの作品にきちんと繋がりがあることさえ把握していなかった。十代の頃に読んだ際、学生運動やら何やら何となく判っていたつもりだったのだが、現在の年齢になってみるともう少し深刻さが身に染みてくる気がした。更に『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を読み進めようと思っているものの、冒頭で挫折している。なお、関連本として積読状態だった栗原裕一郎編著『村上春樹の100曲』も読んだ。これもかなり面白かった。

知人から最近哲学に関する質問を受ける機会が増えた。私が哲学科に在籍していたことを知ったからなのだろう。現在もたまに哲学や思想の本を読む習慣は残っているものの、私は特に勉学に励む訳でもなく何となく卒業してしまった学生の典型だった。それでも学生時代に哲学を学んだ経験が得難いものだったと思う。むしろ、勉学に励んだ才能ある同級生がその後に哲学を勉強しても何も意味が無かったというのだから、判らないものである。そういえば、当時は良く実学志向の友人等から「意味があるのか?」「役に立つのか?」と問われ、その度に哲学を学ぶ意味を考えて自分なりに拙くも真面目に回答していたものである。よくよく考えると、友人たちは自分たちが学ぶ実学にこそ意味があると言いたかっただけなのだろうが、当時の私は若く、友人たちの気持ちをそこまで推し量ることができなかった。

さて、昨日は知人からアリストテレスの神の概念に関して質問があった。質問と合わせてリンクされた解説を読むと神を超越者と記載してある。正直、プラトンには馴染みがあるものの、アリストテレスは大学時代の哲学史を思い出しても印象が薄い。ネットを検索し、本棚から大学時代のノートやシュヴェーグラーの『西洋哲学史』と三省堂の哲学大図鑑を取り出した。やはりシュヴェーグラーは役に立ったものの、三省堂の哲学大図鑑は神に関する記述が無かった。おおよそネット上の検索のキーワードから不動の動者や観照を見て学生時代のノートに書き写した記憶を思い出した。とはいえ、理解するには質料や形相から学び直す必要があった。

本棚からノートを引っ張り出した時、今や批判が耐えない?病跡学の資料を見つけた。ちょっと資料を読み直そうと思った。また、シュヴェーグラーの西洋哲学史を読んだ当時は岡山県にいたので、文庫本の中に長崎ちゃんめんの餃子の割引クーポン券が入っていて笑ってしまった。

Twitterのタイムラインに椎名誠と目黒考二に関する漫画が流れてきた。以前に言及したかもしれないが、椎名誠の仕事をまとめたウェブサイト「旅する文学館」が面白い。また、集英社のウェブサイトで『失踪願望。』なる日記を連載していた。日記の淡々とした筆致や物事に関する感慨が面白い。思えば、椎名誠は小学生から中学生に掛けて熱心に読んだ作家で、おそらくSFを意識して読んだのは椎名誠のSF三部作である『アド・バード』、『水域』、『武装島田倉庫』や「北政府もの」だろう。

これらのように、偶然なのだろうが、最近は過去の読書のやり直しや学び直しをする機会が多い。そういう年齢になったということかもしれない。

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