2023年1月22日/政治性の希薄な労働生産性

村上春樹の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を読み終えて、スマートフォンから目を離し、窓を除くと雲の隙間から太陽の光が差し込んでいる。名古屋を向かう新幹線の中、本を読み終えた高揚感の影響で、陽射しに生の喜びのようなものを感じる。物語の主人公である計算士の主人公は、とある事情で自らの意識が消滅することになっており、意味の無い人生だったと言いつつも、この現実に愛着があったことを示していたことも影響していた。私たちが生きている世界の素晴らしさ、この世界は既に満ち足りているのだ等と言葉にしつつ、高揚感が冷めていく中、この言葉はこの瞬間の自分にしか通用しないのだと思う。おそらく、このような精神状態の持続は傍から見れば、宗教的で自己啓発的なものでしかない。一時的に有用でこそあれ、経済性や公共性を伴う社会においては、この世界に満ち足りている存在は例外なのだ。少なくとも私のような個人に社会が求めているのは労働生産性といった経済的なものだけだろう。しかも、公共性と言っても、その内の政治性はおそらく無ければ無いほど良いのだ。つまり、私に求められているのは、世の中にタダ乗りしない個人なのでは無いだろうか…言い換えれば、私が社会から求められていると想定するのは政治性の希薄な労働生産性だけである。このような帰結に至るのは、私の社会性といえる部分が仕事による形でしか無いためであろう。社会学の本を読めば、日本という国は仕事に従事することが前提となった社会であり、公共の福利厚生は会社員になることで受けられるという。これが思想と言えるかは不明になるものの、こういった思想があと二、三歩で行き着く先は、公共性が無いもの、経済性の無いもの、そういった存在を排除する差別的な思想であったとしても驚かない。そもそも、個人に求められるのが経済性だけであるという時点で偏りがあるのではないか?このような状態から逃れるために私は本やゲーム等にのめり込むのかもしれない。