『ストリートの思想 転換期としての1990年代』

毛利嘉孝著『ストリートの思想 転換期としての1990年代』を読んだ。
東浩紀氏が、『ニッポンの思想』と合わせて紹介していたので手に取った本である。
本書は、労働組合、大学知識人が唱える左翼的な文脈ではない、若者たちの新しい運動のかたちを、「ストリートの思想」として提示するのものである。

ここでいう「ストリート」とは、ストリートファッションに取り入れられたイメージではなく、

ここでいう「ストリートの思想」は、むしろファッションイメージとしての「ストリートらしさ」が消し去っているものを見出すことである。
(省略)
「ストリートの思想」のひとつのカギは、金銭に従属せずに、既存の資本の流れとは別の自律した場所で、いかにカッコよく、いかに魅力的な生活を作り出すことができるかというところにある。あるいは、そもそも何が「カッコいい」のかを批判的に問うていると言ってもいい。
毛利嘉孝著『ストリートの思想 転換期としての1990年代』p24〜25より引用

と説明する。
更に「ストリートの思想」は上記のストリートらしさより「オタク的な思想」と対照的であるという。
著者が指摘する「オタク的な思想」とは、

アニメやライトノベル、テレビゲーム、コンピュータやインターネットなどを中心に社会のあり方を論じる一連の若手批評家の議論である。
前掲書p25より引用

と説明し、

「オタク的な思想」が、アニメやライトノベル、ゲームを「文化」を中心にしているとすれば、「ストリートの思想」は、音楽やファッション、そして、日常生活の経験―人としゃべったり、料理したり、歩いたりといった身体的な営み―をもとにしている。
もうひとつは、政治に対する意識である。「オタク的な思想」の批評家は、政治的な問題に触れることはあまりない。多くの議論において、情報が高度に集約された「オタク的」な風景が、社会や現代人のアイデンティティ一般の問題へと飛躍するのだが。、そこには自分たちとは違う世界を見ている人がいるという想像力がいっさい欠けているのである。
こうした政治意識の違いが如実に表れるのは、国家と暴力に対する認識においてである。「オタク的な思想」にとって、国家とは自然で不可視の存在である。「ストリートの思想」にとって、国家とは問題含みの概念である。というのは、一度でもデモに参加したり、政治的集会に行ったりしたことがある人なら、国家とはなによりも抑圧的な暴力装置として認識されるからだ。
前掲書p25〜26より引用

と、見ている「文化」、「政治に対する意識」の違いを説明する。
更に著者は「ロストジェネレーション」系に代表される貧困、ニート、フリーター問題を扱った論壇と「ストリートの思想」の違いを、

そこから私が「ストリートの思想」という言葉で論じようとしている生き生きとした感覚が、ごっそり失われてしまっているのである。実際に最近の政治運動に参加すればわかるのだが、そこには「怒り」だけが存在するのではない。むしろ積極的に自分たちの民主主義を作っていこうという参加の「楽しみ」や、空間を共有し文化を創造するという、一種の「享楽」も混じった独特の祝祭性が存在している。けれども、そうした側面が、眉間にしわを寄せて語られている議論からすっかり抜け落ちってしまっているのだ。それは古い左翼の「政治」の中に、いつのまにか回収されてしまっている。
前掲書p27より引用

と指摘する。
「ストリートの思想」と他の思想との区別は上記の通りであり、本書では「ストリートの思想」を1980年代から現在まで追いかけていく。
しかし、上記の思想たちがなぜ、ある部分を語り、ある部分を語らない、語れないのかという問い、上記の説明を眺めているとよく判る。それは古い概念に回収され、同じものとして語られないようにする為である。
そういった中で「オタク的な思想」は「ストリートの思想」より間口が広く、現に一つ勢力としてある事は明らかである。文芸・音楽評論家である円堂都司昭氏は自著『ゼロ年代の論点 ウェブ・校外・カルチャー』において、

毛利は、アニメ、ライトノベル、テレビゲーム、インターネットなどを中心に論じる東浩紀を中心とする「オタク的な思想」に対立するものとして「ストリートの思想」を位置づけるが、両者は拮抗しておらず、後者はこのような思想もあるという位置にとどまっているのはないか。
円堂都司昭著『ゼロ年代の論点 ウェブ・校外・カルチャー』p206〜207より引用

と指摘する*1

ここから私自身のデモに参加した雑感を記しておく。
3月11日の震災後、福島第一原子力発電所の事故に対し実施された「原発やめろデモ」に参加した。
このデモの主催者の1人である松本哉氏は本書でも「ストリートの思想家」の1人として取り上げられている。
Twitter上でこのデモを知り、デモが行われている高円寺界隈に赴いた。私はデモに参加した事はなく、デモの列の周りを興味深く見て周った。そして偶然にも通っていた大学学部の教授と再会した。私は大勢の人の中で再会した事、そしてこの教授が今回の事故に対し憤りを憶えデモに参加している事に、驚きを隠せなかった。
本書でも指摘されている通り、デモに参加する事で判る事が多かった。確かにデモには表面上、原発事故の深刻さに比べ、音楽が流れ、賑やかな祭りの様相を呈していた
路上をデモ行進すれば、自由なようでいて警察の誘導に導かれ、その指示を仰ぐしかない。デモを撮影する私服警官と、それに気がついてビデオ撮影を阻止しようとするデモ参加者のやり取り。デモの列が過ぎ去った後、路上のゴミを回収していくデモ参加者たち。
デモに参加する中で、一つの事態に意見を持って行動する人々をこの目で見て、共に行動する事に意味があると感じた。同時にこの問題がどのようにいつまで持続出来るのかという事も気になった。

【関連】
「ストリートの思想」の思想に興味を持ったのはこの放送を聴いてからだと思う。
文化系トークラジオLife「運動」
http://www.tbsradio.jp/life/20070604/


ストリートの思想―転換期としての1990年代 (NHKブックス)

ストリートの思想―転換期としての1990年代 (NHKブックス)


ゼロ年代の論点 ウェブ・郊外・カルチャー (ソフトバンク新書)

ゼロ年代の論点 ウェブ・郊外・カルチャー (ソフトバンク新書)

*1:「オタク的な思想」が政治的な問題に触れる事もあり、東京都青少年育成条例改正の際にネット上でその問題点が指摘され続けた。しかしオタク的な思想が、政治に意見をする事が出来たのかという問い、外部に意見を届ける方法があるのかといえば現在のところ確実な方法は持っていたのだろうか。そういった時、毛利氏の指摘する「そこには自分たちとは違う世界を見ている人がいるという想像力がいっさい欠けているのである」という指摘は的を得ている。