加藤典洋著『文学地図』を読んだ。
本書は、著者の文芸時評と文芸評論が収められたものである。
文芸時評は第一部として「文芸時評の二十年」と題されており、三つの期間に別れている。
一九八九年~一九九〇年の共同通信配信のもので著者曰く「地方新聞に掲載されたもの」との事。これは「バブル期の文学」と題されている。
一九九三年~一九九五年の読売新聞に掲載されたものは「湾岸戦後期の思想と文学」と題されている。
二〇〇六年~二〇〇八年の朝日新聞に掲載されたものは「ゼロ年代の小説と批評」と題されている。
文芸評論は第二部として「ポスト昭和期の二十年」と題されており、三つの評論が収められている。
これら評論はゼロ年代に発表されたもので、二〇〇四年に発表された「『プー』する小説―二〇〇四、『種ナシ』の文学」、二〇〇八年に発表された「大江と村上―一一九八六年の分水嶺」、「関係の原的負荷―二〇〇八、『親殺し』の文学」となっている。
本ブログの過去記事では、この上記に挙げた二〇〇六年~二〇〇八年「ゼロ年代の小説と批評」*1と「関係の原的負荷―二〇〇八、『親殺し』の文学」を取り上げている。
時評を通読して興味を持ったのは佐藤泰志の「海炭市叙景」である。本書では文芸誌に連作として掲載されており、そしてこの文芸時評の途中、この佐藤泰志は自殺により亡くなってしまう。私は昨今、Twitterで「海炭市叙景」という言葉が取り上げられているのを目にしていた*2。調べてみると熱心な読者がおり、映画化もされている作品だった。本書の時評でも好意的に評されており、文庫化されているようなので機会があれば読みたいと思った。
また「湾岸戦後期の思想と文学」では、著者も「感慨深い」と後書きに記載しているが、当時の状況もあり、憲法の問題に触れられている。著者の立場は明確に「一度、国民投票のようなものにかけ、とにかく棄てるなり選び取るなり、国民の意思決定に委ねる事が必要だと思う。結果は問わない。そうすることで、もし憲法とわたし達の間に一対一の関係が生まれれば、時の憲法の選択者としてであれ、反対者としてであれ、たとえわたしは、まともに「平和」について語るはずなのである。」というものだ*3。
「ゼロ年代の小説と批評」は、本ブログでも何度か言及したもので非常に影響を受けている。特に「生の一回生」に関する議論がそれにあたる。「惑星ソラリス」やタルコフスキーに興味を持ったのもこの時評によるものだった。
評論では、興味深く読んだのは「『プー』する小説―二〇〇四、『種ナシ』の文学」、「関係の原的負荷―二〇〇八、『親殺し』の文学」である。
「大江と村上―一一九八六年の分水嶺」では、大江健三郎と村上春樹の評価が、対立させて評価されている現状から、二人の小説が近接するのではないかという提案を行なっている。特に、著者が指摘する村上春樹の短編が新左翼の内ゲバという問題を取り込んでいる可能性には驚かされる。
「『プー』する小説―二〇〇四、『種ナシ』の文学」と「関係の原的負荷―二〇〇八、『親殺し』の文学」は、近年の小説の傾向が「登場人物」中心から「出来事」中心へ移行している/「主人公の単一性」「単一性の主人公性」の希薄化している事を指摘する。
「『プー』する小説―二〇〇四、『種ナシ』の文学」では、主人公がいない、小説の世界公認の場所を持っていない小説を『プー』する小説としている*4。この『プー』する小説として阿部和重「ニッポニアニッポン」「シンセミア」、保坂和志「カンバセイション・ピース」、高橋源一郎「日本文学盛衰史」、村上春樹「神の子どもたちはみな踊る」「海辺のカフカ」ポール=トーマス=アンダーソン監督「マグノアリア」岩明均「寄生獣」を挙げ、出来事中心、主人公の多重人格化する事態から「主人公の単一性」「単一性の主人公性」の希薄化を指摘する。
それではなぜ出来事中心、「主人公の単一性」「単一性の主人公性」の希薄化が小説の中で起きているのか。それは「関係の原的負荷―二〇〇八、『親殺し』の文学」で分析される。著者はこの問題に芹沢俊介「親殺し」から近代から現在に至る親子関係の変化が起きる事によって、親子関係の中に「関係の原的負荷」があるのではないかという。
「関係の原的負荷」とは何か。親と子は「類的存在性の存在の連鎖」の内に生きている。類的存在性とは生物としての親と子の関係である。そして生物の本能として親は子に自分を多少犠牲にしてでも子を育て愛情を注ぐ。この際、子に育て愛情を注ぐという負債が生じる。しかし子が親になり、子に愛情を注げばその負債は返済される。この類的存在の育て愛情を注ぐという関係性のサイクルが「類的存在性の存在の連鎖」である。近代前期に於いて、親子間の愛情は、口に出す必要の無い、前意識的な位置にあり無償なものであった。しかし、後期近代になると親子間の愛情は有償なものとなる。子は親の心配や期待の愛情を重苦しいと思い反抗する。しかし、それが反抗出来ない、排除出来ない場合、負担*5となり、自分が受け入れたものとなる。この事態から更に段階が進むと、負担は子どもの中に埋めこまれ、内在化し、無意識化される。この無意識化によって子どもは親の愛情が当然のものだという事を欠くようになる。そして無意識下で過度の負担を生じさせるようになる。一方、親は無償であるはずの子への愛情を、義務として有償のものとし、それを無意識化する。子と親はそれぞれ負担感と義務感を無意識化し、無意識化する事によって、この事態に気がつけなくなる。この「類的存在性の存在の連鎖」のサイクルが崩れる事で、親は自分の中にある子、子は自分の中にある未来の親、としての本質を弱める事になる。
このサイクルの崩れは一般的な社会学の考え方からみれば非本来的な属性である。
しかし人は類的存在であると同時に「動的な類的存在」でもある。人は親子関係*6の中に産み落とされるが、親子関係を離脱して他者と結合し、新たな親子関係を作り出していく存在である。人は「類的存在性の存在の連鎖」の連鎖を離脱し、「個的存在」となる事で初めて類的存在性が確保される変則的な類的存在なのだ。これが「動的な類的存在」である。子が「類的存在性の存在の連鎖」から離脱を志向する*7。この際、子は親の愛を無償なものと理解していても、負担を感じる事になる*8。「類的存在性の存在の連鎖」として非本来的だった子の負担は、「動的な類的存在」になった時、避ける事の出来ない本来的なものとなる*9。
人は「類的存在性」(親子の関係で物事を見る、あるいは生きるあり方からなる世界)と「個的存在性」(一人の人間として世界と関わり、他者と関わる世界)の動的な連関として存在している。しかし、個人の中で「類的存在性」と「個的な存在性」が何らかの理由で崩れ、関係世界の人間の類的存在性のサイクルが途切れる事によって「関係の原的負荷」が析出されるという。著者は「関係の原的負荷」について、志賀直哉「和解」、沢木耕太郎「無名」「血の味」、精神分析学者の岸田秀の母との葛藤から分析している。
そして現在、出来事中心、「主人公の単一性」「単一性の主人公性」の希薄化は、社会構造の変化によって、近代小説を支える近代的な親子関係の類的存在性の「存在の連鎖」が途切れ、その結果「子」の「親」への反抗という近代小説の中核をなす主題が「親殺し」という主題に交代したのだという。ここで「関係の原的負荷」は主人公や作者にも「無意識化」されている為、気がつく事はない。そして鋭敏にこの変化を察知した作家たちが、単一の主人公を持つ作品世界を忌避するようになったのではないかと考察している。
そして著者は「関係の原的負荷」がどのように表現され、主人公たちがどうやって自己を救出していくのかを検証していく。社会学からは親子の「関係の原的負荷」は「隣る人*10」という一つの回答が用意されている。
それでは文学はどのような回答を用意するのか。考察の対象となるのは、やはり沢木耕太郎の「血の味」と村上春樹「海辺のカフカ」であり、更にこれらの作品より先行して「関係の原的負荷」という問題を扱っているという岩明均「寄生獣」である。
この分析から導かれるのは、主観による意味付け、投影行為であり、現象学が言及される。投影行為は「間主観的*11な関係に成り立つ現象学的な確信成立の構造」であるという。つまり物語のなかで単一性が希薄化した者同士が互いに一致した実像で以て通じ合うという事である*12。
以上が本書の概要となる。今思えば本書を購入したのは「関係の原的負荷―二〇〇八、『親殺し』の文学」を一度読み、単行本化した際、改めて読み直したいと思い購入したものだった。結局四年放置したかたちになったが、当時よりは物事に対する理解は進んだのかと思う。尚、本書で著者がそれぞれ参照する作品の偶然の一致*13が結構有り、今回は理論的な部分についてのみ言及したが、そういうのを目にするだけでも結構面白いと思う。
―関連記事―
「生の一回性の感覚」
http://bullotus.hatenablog.com/entry/20080228/p1
2008年3月26日付けの朝日新聞文芸時評
http://bullotus.hatenablog.com/entry/20080405/p1
『関係の原的負荷― 二〇〇八、「親殺し」の文学』
http://bullotus.hatenablog.com/entries/2008/12/02
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*1:下記に該当記事を記載。
*2:どうやら著名人が本作を取り挙げた事がきっかけと思われる。
*3:加藤典洋著『文学地図』「湾岸戦後期の思想と文学 言葉として憲法」p60より引用。尚、現在、憲法改正についての議論が展開されており、おそらく憲法が今後改正される可能性が高い。著者が言うように憲法を主体的に選択する問題は憲法96条の改正という形になっている。平和という問題だけでは憲法について語れない状況だ。
*4:これは社会に出て公認の居場所を持つ人と持たない人の比喩である。
*5:負債。
*6:「類的存在性の存在の連鎖」
*7:著者は反抗期を具体例として挙げ「反抗期の存在論的な意味」だという。
*8:親は子が出来る事によって「個的存在」から「類的存在性の存在の連鎖」のサイクルに戻る事になる。
*9:著者はこの動的な「類的存在性の存在の連鎖」から「動的な類的存在」になる離脱の際に親への愛や子への愛という人倫が生まれるという。
*10:菅原哲男の用語。子どもを無条件に受け入れる存在、実際に親でなくとも、それに誰かが代わる形で、その子どもに「親子関係を作り直す」ことを可能ならしめる存在(前掲書p363)菅原哲男は児童養護施設「光の子どもの家」の現理事長。「隣る人」は同名のドキュメンタリー映画(公式サイト: http://www.tonaru-hito.com/index.html )もある。未観賞。
*11:相互主観性ともいう。ここではお互いが投影した状況で、かつお互いが理解し了解していると考えれば良い。
*12:「主人公の単一性」の希薄化がしている問題を別の角度から概念化した平野啓一郎の「分人主義」が思い出される。分人主義は上記の間主観的な関係に成り立っている具体的な例となるだろう。家族といる時の自分、恋人といる時の自分、SNSをしている時の自分という、相対する事によって生じる分人のネットワークが個人である。よって私たちはその場、その関係性を基盤にして、それぞれ、その場で、自分と他者の異なる面を了解して理解している。
*13:著者も認めているが悪く言えばこじつけ。