『ももへの手紙』を観た。沖浦啓之監督作品。
『人狼』『イノセンス』を観た事を友人に告げると『ももへの手紙』もとても良かったし「考えさせられる」ので観に行くといいよと勧められた*1。
GWはこどもの日に劇場へ足を運んだところ、思いのほかの多い客足に驚く事になった。
突然の父親の事故死により娘のももは母であるいく子と共に、いく子がぜん息の療養も兼ねて住んでいたという瀬戸内海の汐島に移り住む。
ももは父親が事故死する前、ある出来事をきっかけに「父さんなんてもう帰ってこなくていい」と言った事を後悔している。そして父の死後、父の部屋から見つけ出した「ももへ」とのみ残された便箋に涙し、その便箋に続いた言葉を考え続けている。
ももは移り住んだ汐島で、他の人には見る事が出来ない「イワ」「カワ」「マメ」と名乗る妖怪と出会い、仕方なく生活を共にする事になるのだが…。
久しぶりにこの手の映画を観たのだが、ももが妖怪との関わりをきっかけに徐々に表情豊かになっていく様は清々しいし、島の子ども達と仲良くしたいという気持ちの一方で、島の子どもたちが行う川への飛び込みが出来ないため遠くから見守る姿はいじらしいなぁと思って観ていた。しかし、子どもの時の悩みというのは*2、こんな感じだったかなとぼんやりと自分が子どもだった時を思い出していた*3。
というように割と何も考えずに観ていたのだけど、この映画を勧めてくれた友人はこの映画を観て「考えさせられる」と言うのだから、一体何を考えていたのだろうかと、映画を見終えた後、考える事になった。
「んーじゃあ、考えてみようか。ももといく子は祭の行事で使われる送り船から父の手紙を受け取る訳だけど、手紙の文面はももにしか見えていないから、妖怪とか全部ももの妄想なんじゃないか。いやいや妖怪は島の子どもの一部には見えているみたいだからそういう訳にもいきそうにない、あれは現実だ!!という事にしておこう。で、妖怪とかそういった超自然的現象について考えていてもしょうがない、そんな気もないし。「ももへの手紙」、そう手紙だ、友人はラカニアンで東浩紀を愛読しているから、手紙だ、誤配だ、しかし俺は手紙とか誤配とかさっぱり判らない。となると父の死、それを受け止め生きようとする母と娘の姿がぼんやりと頭のなかに浮かんでくるな。確かにあの辺りのシーンは無謀にも見えるけど、でもそうじゃないんだろうなぁ。」
父の死。以前勤めていた仕事で、夫が事故で亡くなってしまった女性とお話をさせて戴く機会が二度程あった*4。私が聴く話というのは、業務上仕方無いとはいえ、事故前後の状況や生活態度、健康について聴く事だ。得てしてその内容は彼女たちに生前の夫について思い起こさせ感情的にさせた*5。
彼女たちは良かれ悪しかれ、いなくなった夫という存在を忘れている訳ではなかった。また自分に出来る事は無かったのかとも考えていた。大切な人がいなくなるという事は、大切な人がいなくならないように自分に出来る事は無かったのかと何度も思考させる事なのだと、私は知った。
亡くなった父がいく子にプレゼントした手鏡を割ってしまった事からいく子とももが喧嘩をしてしまうシーンがある*6。
台風による激しい風雨のなか、ももを必死に探すいく子はぜん息で倒れてしまう。
ぜん息で倒れた母を助けようと―父を亡くしてしまった時と同じようにしたくない―と妖怪たちに助けを求め、隣の島へ医者を探しに行くももの姿。
いく子とももが雨風のなか必死に走り回る姿は、大切な人がいなくならない為に出来る事をしたいという思いの現れだと考える。
すると無謀で非現実的に見えるあのシーンに非常に説得力があるのではないかと私は思う。
というように考えたのだが、沖浦啓之氏の描く女性は非常に抑えられた色気があり、いく子が綺麗だなぁと思いつつ、エンドロールで声の出演が優香と知り「ああ、優香もこういう役を引き受ける年齢に達したのだなぁ」と思ったり、ももがスク水で登場するシーンは「好きな人にたまらないのだろうなぁ」とか、ほんとしょうもない事ばかり考えていたのが本当のところではある。
劇場アニメーション ももへの手紙 オリジナルサウンドトラック
- アーティスト: サントラ,窪田ミナ
- 出版社/メーカー: flying DOG
- 発売日: 2012/04/25
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