共喰い

早稲田松竹にて、青山真治監督作品『共食い』を観た(原作:田中慎弥著「共喰い」)。

原作は未読であり、更に言えば昨今芥川賞作品に目を通した記憶は無い。新聞紙上に田中慎弥が寄稿した文章を二度程読んだ記憶があるが、なかなか人には出来ない、難しい生き方をしているという思いを抱いた。

同時上映の「Helpless」もそうだったが昭和63年前後、つまり昭和の終わりを背景に、一人の人間が昭和と共に生きたという事実が、物語の射程を広げており、私は人の情念の深さに震撼した。その人とは主人公の実母である。

暴力的な性癖を持つ父と、現在の妻である琴子と、高校生の主人公は暮らしている。主人公は恋人と神社でセックスを繰り返している。恋人はセックスに痛みしか感じていない。主人公もまた自分が暴力的な性癖を持つ事を知っている。実母は戦争の際、その腕を亡くし、父の元から去り魚屋を営んでいる。実母は主人公の目を見ながら「父のような目をしよって」と暴力の顕れを察知している。
琴子は妊娠したという。主人公は父と琴子の暴力的なセックスを見ながら、琴子とセックスする事を望んでいる。その性欲は恋人に向かい、暴力となって現れ、距離を置かれる。性欲を持て余した少年は父の性欲のはけ口となっている娼婦のアパートに赴く。
祭の日、琴子は主人公に事前に伝えたように家を出て行く。父は琴子が出て行った事を知り、怒り探しに出掛ける。しかし、父は主人公と待ち合わせの為にいた恋人を神社でレイプする。子どもたちから事を聞きつけた主人公は父を問い質す。父はヘラヘラと笑いながらレイプした事を認めるのだった。
恋人を見つけ、実母の魚屋に赴く青年。事を知った実母は義手と包丁を片手に夫の元へ向かう。港で実母は義手もろとも夫を海に沈める。
昭和天皇の危篤のニュースが流れる冬、主人公は拘置所の母の元へ赴く。母は語る。「私の手をこんなにした人より長く生きてやろうと思った」と。
主人公は琴子の元を訪れる。琴子は主人公がセックスを求めている事を知っている。大きなをお腹を抱えながら主人公を迎え琴子はいう。「子どもはあんたの弟妹ではない」「ちょっとくらい殴ったっていいよ」と。しかし主人公が事に及ぼうとした時、お腹の子どもが胎動する。「動いた!」と驚きの声を上げる琴子。主人公はそんな琴子の喜びの顔を見つめている。
地元に戻ると実母の魚屋で恋人が魚を捌いている。実母と同じように捌いた魚の丼を主人公に渡す。夜、共に眠りながら、恋人の首に手を伸ばそうとする主人公。すかさず恋人は問う、「あんたの手は私を可愛がる為にあるんとちゃうか」。主人公の上の乗りながら腰を動かす恋人。「痛くないんか?」「いや気持ちいい」。恋人は主人公の上でエクスタシーを感じている。主人公の腕は紐で結ばれながら恍惚の表情を浮かべる恋人を見つめている。

性欲に振り回される男たち。暴力とあいまった性欲をどこに向けるのか、それしかない。しかし、男がその性欲を発散する為の物でしかないと考えている女たちは、男たちの膨張したそれとは別のところで、男を置いて自由になっていく。昭和という時代の終わり、そして女性の自由を体現するのは1986年に施行された男女雇用機会均等法だろうか。
男は女の手のひらの上で性欲に囚われているだけなのか。本作では女性はその性を引き受けた上で自由に見える。

主人公が吉行淳之介の小説を読みながら股間をまさぐっていたのが笑った。


共喰い (集英社文庫)

共喰い (集英社文庫)