2021年11月21日/コロナ禍における政治について

コロナウイルスに関してはっきりとした認識を持ったのが何時頃になるのか今となっては憶えていない。メールやSNSのやり取り等を確認する限り、2020年1月時点で私は今のような現状になるとは全く考えていなかった。当然ながら脅威という認識も無かった。おそらく2020年2月後半、割と唐突と思料された小中高校等の休校の処置の報道がターニングポイントになると思う。…と言う文章を2020年4月23日に残している。個人的なコロナウイルスの記録を残そうとしたものの、結局書き継ぐことは無かった。その後に西田亮介の『コロナ危機の社会学 感染したのはウイルスか、不安か』(刊行:2020年7月20日)を読んでいるが、起きた出来事の時系列すらほぼ忘れている状況であった。

さて、未だ続くコロナウイルスの影響の中、2021年10月31日に第49回衆議院総選挙が実施された。私は場当たり的な政府のコロナウイルスの感染症対策に怒りがあり、当然ながら選挙の結果に反映されるだろうと考えていた。しかしながら、結果的には立憲と共産が議席を減らした一方、自民と公明は議席を維持、維新が座席を増やすという状況となり、民意は非常に冷静だった。SNSのエコーチェンバー現象の中で勘違いをしたのは私だった。もちろん、個別具体的にみればベテラン勢の落選等、前向きに捉えることができる変化も見受けられたと思う。

政治の利益誘導の対象とならない人々が起こし得る行動は何か?その問いに一足飛びで暴力を想像する。断絶された個人が起こし得る暴力は自殺だろうか?昨今の事件において、加害者は死刑になるために人を殺そうと思ったと動機を語る。これらに鑑みると、加害者は自殺を断念した上、殺人や事故等の突発的な被害者になることを想定しておらず、自らを死に至らしめるのは法制度だけだと考えていることになる。当たり前だが横暴で勝手な考えである。

…等と考えた。こうやってぼんやりと考えていることを列挙していくと、関係性があると思われていることが、特段の論理的な繋がりを持たないことが判る。