2021年12月26日/投影

先日の日記において以下のように記した。

昨今の事件において、加害者は死刑になるために人を殺そうと思ったと動機を語る。これらに鑑みると、加害者は自殺を断念した上、殺人や事故等の突発的な被害者になることを想定しておらず、自らを死に至らしめるのは法制度だけだと考えていることになる。当たり前だが横暴で勝手な考えである。

しかしながら結論は安易で考えを上手く表現できていない。紋切り型の定型句に思考の展開を落とし込んでいるだけのようだ。

ここで思い浮かぶのは投影の原理である。投影の原理の具体的な例はこのようなものである。
「私は友人が嫌いである。しかしながら友人を嫌うことは良くないことである。よって友人が私を嫌っていることにする」
これは次のように言い換えられる。
「友人は私を嫌っている。故に私は友人が嫌いである」
「私」は友人が嫌いな理由を「私」ではなく外部である友人にあるとすることで精神の均衡を維持している。
投影は防衛機制の一種とされており、ある問題の根本の原因を自分ではなく第三者に原因があるとする思考展開である。

投影の原理を加害者の動機に端的に当てはまる。
「私は死にたい(自殺)。しかし自殺は良くないことである。よって私は殺される」
この時点でそもそも自殺が良くないことであるという考えに無理があるように思う。むしろ、自殺ができない故に殺人が展開されている。また実際にそのような報道を読んだことがある。加えて、自殺を前提に殺人が許容されている節もある。この点が以前の日記の通り横暴で勝手な考えだと思う原因なのだろう。そのため、以下のように修正する。
「私は死にたい(自殺)。しかし自殺をすることができない。よって私は誰かに殺されることで死ぬ」
しかしながら、現実に「私」を殺してくれる人はいないため、次の論理が展開されると思われる。自殺が第三者の殺害に転換され、何故か自らの死の達成のために第三者の殺害が許容されてしまう。そもそも自殺が前提ではなく殺人を許容するために自殺が前提とされている可能性もある。
「私は誰かを殺す。誰かを殺すことによって私は死刑になる」

これらの通り、投影の原理に加害者の論理展開を追うのは難しいようである。端的に展開することで複合的な要因が無視される。上記の論理的整合性も危ういと感じる。しかしながら、自殺を前提とすることで殺人が許容され、目的が自殺から殺人に転換されることは往々にしてあるのではないだろうか。