自らの経験が重要であるという立場がある。しかしながら、身体が一つである以上、経験は非常に限られたものである。経験できる認識の主観は技術の進歩がしても現状一つしかなく、同じ時間軸上において並列に異なる経験をすることは、私が知る限り未だできていないはずである。
コロナウイルスの流行に伴い、医療的な知見に触れることが増える一方、いわゆるデマやフェイクニュースに触れることも増えた。これは東日本大震災の原発事故の影響が言及される際にも見受けられたものであり、既視感を憶えるものだった。
コロナウイルスの情報等をネット上で集めていたところ、ある国会議員の感染経緯を記したブログを読んだ。この国会議員は自らが感染した経緯から接触感染を疑い、飛沫感染だけでなく接触感染にも対策が必要との提案をしていた。
コロナウイルスの感染対策に関して比重が置かれていたのは「三密」に示されるように飛沫感染だった。一方、この国会議員の自らの感染経緯から接触感染に注意を払うべきだという提案をした。この国会議員の提案がその後に重視されたとは思えないものの、政策に関与する国会議員が自らの経験を重視することで、客観的な情報に基づいた政策が個人的な経験に基づいた政策にリソースを割かれる可能性があることを垣間見た。
こういったことに関して下記を読み色々と腑に落ちることがあった。なお、著作自体は読んでいない。
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