言の葉の庭

新海誠監督作品『言の葉の庭』を観た。
友人の勧めによる。もちろん気になってはいたが、敢えてこの作品を観る為に映画館へ足を運ぶという気にはならなかった。当の友人はブログにて本作への思いを語っている。

本作を観ながら、私はなかなかこの物語に没入する事が出来なかったというのが正直なところだ。
それはなぜなのだろうと考えるのだが、非常にリアリティのある映像と、物語の要所要所で発覚する事実にあるのではないかとも思う。例えば、高校生の青年が出会った女性は、青年が通う高校の教師であった、というのだが、「自分の通う高校の教師さえ知らないのか」「勤務先の学生服にすぐに気がつかないのか」という疑問が沸く。もちろん、物語の中で、これらの事態に対する説明は用意されているのだが。

相当の技術を要しているであろう、映像の美しさを、正に「眺める」、という形で本作を観終えた。一方で、「眺める」というこの態度が、この物語に訪れる生々しさを強調させる、という面があったかもしれない。

例えば、靴職人を目指している青年は、女性用の靴を作ろうとするも行き詰まっている。そこで女性に足を見せて貰う。青年が女性の足を触り、測り、型取って行く。青年が女性を足を通じて知る、その所作を含めて非常に性的なシーンだと思う。
突然の雷雨に見舞われ、青年が女性の家を訪れる。そこで二人は、互いに言葉にしないまでも、これまでに無い幸せを実感している。青年は躊躇う事無く、さらりと、女性に気持ちを伝える。けれども女性は教師である立場を崩さない。それに憤った青年はその場を後にする。女性は逡巡しながらも青年に気持ちを伝えようと追いかける。しかしそこで青年は女性を拒否する言葉を投げつける。しかし、女性は泣きながらも青年の胸の中に飛び込み、気持ちを吐露する。
わざわざ追い掛けて来た女性に対して、拒否の言葉をぶつける、というのはなかなか興味深いように思う。

本作では、青年はとてもしっかりとした人物として描かれている。家族の為に家事をこなし、靴職人という夢を持ち、専門学校への進学の為にアルバイトをしている。しかし、である。彼は大人ではない。純粋な傾向のある存在として描かれている。教師を精神的に追い詰めた高校の先輩の元へ出向くし、教師という立場にある女性へ気持ちを伝える事も躊躇無い。何より、彼は大人である女性と対等になる方法を、靴職人という職業に近づく事でなそうとしている。しかし、職を持つ事が大人になるという事だろうか。大人とは知らぬ間に引き受けているものではないのか。それは女性が「27歳になっても15歳のあの頃から何も進歩していない」と思うように。
実のところ、青年は物語の中でその立ち位置を変える事は無い。そして彼は、物語の最後に女性に拒否の言葉、変わる事を要求する。そして彼女をそれを受け止める。難しい要求を受け止めて見せるのは結局のところ、女性であり、大人だったのだ。
本作は円満に物語を終えるのだが、そこには非対称的な大人の、女性の受け入れがあるからこそだと思う。


―友人の本作の感想―
ALSO SPRACH XERXES「雨と記憶の飛沫と流れー言の葉の庭ー」
私と違い、物語を素直に受け取り、かつ本作のシークエンスから想起された自身のエピソードが面白い。映像の技術的な話もある。


劇場アニメーション『言の葉の庭』 DVD

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