海炭市叙景

佐藤泰志著『海炭市叙景』を読んだ。
加藤典洋著「文学地図」内の時評に紹介されており興味を持ち手に取った。

舞台となるのは北海道の架空の地方都市「海炭市」である。解説によれば海炭市のモデルになっているのは著者の故郷である函館市である。海炭市とあるが実際には函館市には炭鉱は無いという。しかし北海道は昭和30年代まで有数の炭鉱地帯だったという。そんな寂れゆく地方都市に生きる人々を本書は鮮やかに愛おしく描き連ねる。
本書は第一章「物語の始まった崖」1「まだ若い廃墟」から始まる。炭鉱の閉山により職を失った兄とその妹が、初日の出を見に、家にある小銭を集めて、観光客が夜景を眺める為に出向く山に昇る。初日の出を見終えた後、兄は妹をロープウェイで帰らせ自らは歩いて下山するという。下山する兄をひたすら待つ妹を語り部とした物語である。
第一章にて続く物語は、この「兄が遭難して死んだ」という事実をニュースや新聞で見聞きした全く関わりあう事の無い、しかし同じ場所に住む人々の物語である。彼らは遭難した若者の死を他人事として、しかし不意に思い出しながらも、それぞれの生活を送っている。その生活とは、若者の死が他人事でしかないように、傍からみれば、些細な、つまらない事ばかりである。しかし、そんなつまらない事こそ、日々を生きるなかでの苦しみや喜びであり、物語の登場人物と私が共有する事の出来るものだ。
ここで起こる矛盾―他人事でしかない事こそ共有出来るという事、個人的な体験こそ他者との共感をもたらすのは、読書という導入と著者の技量によるものだろう。先に書いた通り、寂れゆく地方都市の愚かな人々さえ愛おしく見えるのだ。それは著者が丁寧に人々を描いているからこそもたらされる。
第二章では、第一章から二三ヶ月の時間の経過がある為か、若者の死は触れられない。というよりそれは巷のニュースの流行り廃りのように、忘れ去られているように見える。それでも海炭市に住む人々の生活は続いていく。
本書は本来四章と三十六の物語から成る構想だったという。しかしそれは著者の自死によって第二章にて未完という形を取っている。第一章は冬、第二章は春、という季節が割り当てられている。私が若者の死が忘れ去られているように思う、というのもこの時間の経過を根拠にしている。
物語が未完といえども、本書は短編という形態を取っている為か、それほど気にならない。そして面白い。
例えば、ここに登場する人々は札幌を「首都」と呼ぶ。「首都」をまだましな場所と位置づける一方、故郷ゆえに「首都」から出戻る者もいる。本書が執筆されたのは1990年代前後だが、中央一極集中と地方の問題が既に描かれている*1
また、「首都」から来た、いずれ売られる別荘に短期間滞在する若者を描いた短編は他とは異なった作風になっている。極端に言えば、村上春樹的な作風だ。おそらく意識的に作風を他と変えていると思う。解説によれば、著者は村上春樹と同世代であるという。この作品から地に足がついていない様子を受けるが、あくまで短期滞在者である若者を描いた点や若者が都市的な生活を志向する事によるかもしれない。一方、若者にとっては父の故郷であるこの別荘が、離婚により母が売る事によって「この街とは縁が切れるだろう」という事から、若者が自らこの地方都市を切り捨てた訳でも無い事が判る。

本書は熱心なファンや著者の同期生が映画化を目指し市民からの協力によって2010年に公開されている。本書は文庫で読んだのだが、この文庫化も映画化に伴うものとの事。このような人々の努力が、良い作品を読む体験を与えてくれたと思うと、嬉しい。


海炭市叙景 (小学館文庫)

海炭市叙景 (小学館文庫)

*1:ロードサイド文化が進行していく様子が描かれている。