ポストモダンの共産主義

スラヴォイ=ジジェク著栗原百代訳『ポストモダン共産主義 はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』を読んだ。
題名にある悲劇と笑劇は2001年9・11同時多発テロと2008年の金融大崩壊を指す。
本書は、ベルリンの壁崩壊以降、リベラル民主主義と資本主義が上記の事態によって機能不全を起こしているとして、敢えてコミュニズムの視点から、現在の事態を批判分析するものである。
著者でありラカン派マルクス主義者であるスラヴォイ=ジジェクの文章はネット上の映画批評等を目にする事はあったものの、こうやってまとまった文章を読むのは初めてである。読んでかなり私には理解に及ばない部分が多く、ほとんど文章を読んでいただけという状況になっていた。とはいえ、著者は、資本主義やら市場主義を信用していないにも関わらず、信用しているという態度―つまり内心信用していない、というような態度や、社会主義は悪だが、資本主義の安定に資する場合に限り認められる、等の指摘にはハッとさせられる。
以下、本書からの引用。

金融システムの「社会主義化」が資本主義に役立つのならば認められるというのは、究極の皮肉である。社会主義は悪―のはずだが、ただし、資本主義の安定に資する場合にかぎり悪ではないということだ(現代中国の対称性に注目を。中国共産党は同じように、「社会主義」体勢を強化するために資本主義を利用している)。 スラヴォイ=ジジェク著栗原百代訳『ポストモダン共産主義』p28~

ここでコミュニズム的な平等主義の解放思想にこだわること、しかも厳密にマルクス主義にこだわることは重要である。社会ヒエラルキーの「私的」序列に定位置を欠いているがゆえに、普遍性を直接に体現する社会集団がある。ジャック・ランシエールが社会的身体の「器官なき部位」と呼ぶものだ。真に解放を目指す政治は、カント流の「理性の公的使用」という普遍性と、「器官なき部位」の普遍性とが直結することで生み出される。これは若きマルクスコミュニズムに見た夢、すなわち哲学者の普遍性とプロレタリアートの普遍性の融合である。このように〈排除される者〉が社会的・政治的空間に侵入してくることを、われわれは古代ギリシャ以来こう呼んでいる。―民主主義、と。 前掲書p167~

以上。

ポストモダンの共産主義 はじめは悲劇として、二度めは笑劇として (ちくま新書)

ポストモダンの共産主義 はじめは悲劇として、二度めは笑劇として (ちくま新書)