潜勢力―『バートルビー 偶然性について』

ジョルジョ=アガンベン著高桑和巳訳『バートルビー 偶然性について』[附]ハーマン=メルヴィル著『バートルビー』を読んだ。
「バートルビーと仲間たち」を読み終え、改めて『バートルビー』と、未読だったアガンベンの『バートルビー 偶然性について』に目を通す事にした。

『バートルビー 偶然性について』はドゥルーズのバートルビー論のイタリア語訳と合わせて刊行されたものだ*1
『バートルビー 偶然性について』は、バートルビーが筆生である事によって、その他の文学作品の登場人物同様―アカーキー=アカーキヴィチ*2、ブヴァールとペキュシェ*3、ジーモン=タンナー*4、ムイシュキン公爵*5、カフカの『審判』の名も無い書記たち*6―文学的な星座を占めている。しかし、バートルビーの謎は文学的な星座だけでなく、哲学的な星座からしか解く事が出来ないという*7
バートルビーの謎を解明すべく論じられるのは「潜勢力」である。著者は「じつのところ、何らかのものとして存在したり何らかの事柄を為したりすることができるという潜勢力はすべて、アリストテレスによれば、つねに、存在しないことができる、為さないことができるという潜勢力でもある。*8」という。具体的な例を引けば「建築家は建築をすることができるという潜勢力を、それを現勢力に移行させていないときにも保つ。*9」という事になる。物事として現れる前の状態、それが潜勢力であり、潜勢力が移行して、物事として現れたのが現勢力という事だ。
そして、アリストテレスの思考の潜勢力、そしてアリストテレスの影響を受けた、カバラー学者、イスラム教の神の創造の潜勢力について議論を追う。
それではバートルビーと潜勢力はどのように関係するのか。著者は「我々の倫理の伝統は潜勢力の問題を、しばしば意志や必然性といった用語に還元することで避けて通ってきた。我々の伝統的な倫理における支配的な主題は、人ができることではなく、人が欲すること、人がしなければならないことである。*10」という。これは「バートルビー」に於いて、バートルビーの雇い主である法律家がバートルビーに絶えず求める姿からも判る。しかし、バートルビーは法律家が求める「しなければならない」仕事に対して「しないほうがいいのですが」と応える。法律家はバートルビーを理解する為に意志や必然性に関する本を読むのだが、「潜勢力は意志ではないし、非の潜勢力*11は必然性ではない。*12」為にバートルビーを理解する事は出来ない。意志が潜勢力に権力を及ぼしていると信じること、現勢力に移行することが潜勢力の両義性*13を終わらせる決定の結果であると信じることは、「道徳が絶えることなく抱いている幻想である。*14」のだ。そして著者は中世の神学者たちが、神のうちに二つの潜勢力を区別していた事を説明する。一つめの潜勢力は「絶対的潜勢力」である。これは神はどのようなことでも為すことができる、というものだ。他方、二つ目の潜勢力は「秩序づけられた潜勢力」である。これは神は自分の意志に合致することしか為すことができないということだ。意志はその潜勢力を秩序づけるものであり、意志のない潜勢力は、実効性がなく、現勢力へ移行することができない。バートルビーは潜勢力に対して意志のもつこの優位を改めて問いており、「「絶対的潜勢力」よってのみ可能である。*15」という。しかしながらバートルビーの潜勢力が実効性を持たないという訳でもなく、意志が無いからといって現実のものにならずに留まる訳でもない。「筆写することを欲していない、ということでも、事務所を離れないことを欲している、ということでもない―単に彼は、それをしないほうがいいのである。*16」。これによって「絶対的潜勢力」と「秩序づけられた潜勢力」のあいだの関係を構築する可能性すべてを破壊してしまう。「この定式は、潜勢力の定式である。*17」という。
著者はここからドゥルーズと懐疑論者の議論、ライプニッツの充足理由律を引き、この潜勢力の定式を検証する。それによってバートルビーは「存在と無の間に無差別のうちに理由もなく存在する。*18」、「存在と無の両方を超出する非の潜勢力という可能性のうちに最後まで留まる*19」という試練を負っている。そしてメルヴィルがバートルビーに託したのは「何かが真となりえ、かつ(つまり同時に)真とならずにありえるのはどのような条件によるのか。何かが真であるのが真でないより以上ではないのはどのような条件においてなのか?*20」という事だ。バートルビーは存在することもしないこともできるという潜勢力という状態で真理の諸条件を免れ、宙吊りになっている。ここで著者は本書の「偶然性」について言及する。「存在することができるとともに存在しないことができる存在は、第一哲学*21においては、偶然的なもの、と呼ばれる。バートルビーが冒す実験は、絶対的偶然性の実験である。*22
そして著者はライプニッツの「弁神論」に於ける隠喩「運命の宮殿」―あらゆる可能性が描かれる神殿と、ニーチェの「永劫回帰」を引き、潜勢力と現勢力を検証する。そしてそこから導かれるのは、可能な世界と不可能な世界が一つに帰した「脱創造」であり、「「真となる、さもなければ真とならない」という「真偽を問う事の不可能な中心に到達する。*23」事だという。そしてその中心にバートルビーがいるのだ、と。
以上が、本書の概要だが、バートルビーは、論理の伝統を離れた、「しないほうがいいのですが」という潜勢力で以て存在そのものを揺るがす。そして何者でもない在り方を提示する。これがバートルビーに惹きつけられてしまう理由の一端である。一方で私は「何者かである」ことをここに残し続けているのだけども。

―関連エントリ―「バートルビー」の感想
http://bullotus.hatenablog.com/entry/20080703/p1


*1:論文としては独立している。

*2:ニコライ=ゴーゴリ著『外套』

*3:ギュスターヴ=フロベール著『ブヴァールとペキュシェ』

*4:ローベルト=ヴァルザー著『タンナー兄弟姉妹』

*5:ドストエフスキー著『白痴』

*6:カフカ著『審判』

*7:ここで挙げられた文学の星座に属する作品たちについては、『外套』と『白痴』しか読んだ事は無い。しかし、「星座」で表現する、この比喩には、私が慣れていないからだろうが、疲れる。

*8:『バートルビー 偶然性について』p14~

*9:前掲載書p15

*10:前掲載書p38

*11:「存在しないことができる、為さないことができる潜勢力」の意

*12:前掲載書p39

*13:つねに、為すことも為さないことができる。

*14:前掲載書p40

*15:前掲載書p41

*16:前掲載書p41~

*17:前掲載書p42

*18:前掲載書p51

*19:前掲載書p53

*20:前掲載書p56

*21:形而上学

*22:前掲載書p58

*23:前掲載書p86