『決壊』についてもう少し書く。

今日は少し言及した平野啓一郎著『決壊』についてより詳細に、そして現在読んでいた加藤典弘著『テクストから遠く離れて』で言及されている大江健三郎著『取替え子チェンジリング』について書きたい。そしてその参考として、平野啓一郎対談集『ディアローグ』に収録されている大江健三郎との対談を先ほど読み終えた。この対談集を軸にして書く。

 
『ディアローグ』においての主な対談内容はナラティブというものについてであった。大江健三郎は平野啓一郎の『日蝕』について四方田犬彦の評論から、作者は主人公の肩越しから語るという方法をしてきたと指摘する。さらに『葬送』においてはその肩越しの視点の数を増やして一つの共同体を構成することに成功したという。そしてそこで大江はこのように物語を紡ぐのか、自身がしているように作者と物語の「私」を結びつけてかくという二種類の方法があるという。後者の考えについてが『テクストから遠く離れて』で問題にされているところである。では平野の『決壊』はどのように語られているのだろうか。答えは両方か、前者か、後者か。どうも『決壊』では前者の方法が取られているようである。ただし、どうもこの肩越しの視点が主要な登場人物からは意図的にある程度排除されているように思えるのである。そしてその周りの登場人物ごしの視点によってその主要なキャラクターの像を形成させる。また小説内に起こる事件によって、マスコミ、ネットが作り出す事件関係者として登場人物像も紹介される。そして主要なキャラクターが語りだすと、それが本心から出てきている言葉なのか疑わしく読者は思うのである。実際、主人公の友人たちはネット、マスコミの情報に振り回されているように思える。主人公はこの疑念が一度持たれたら消えるものではないことを自覚している。そして読者もその疑念をぬぐうことが最後まで出来ない。少なくとも、私は主人公が実は…という展開があるのではないかと思っていた。これは意図的に排除されていると思われる主人公の視点が、最後に展開されるのではないかという期待でもある。いつか書いた日記に『カラマーゾフの兄弟』との関連について書いたが、上記の書き方はドミトリーが父フョードルを殺したと疑いを持たれる描き方と、酷似している。『カラマーゾフの兄弟』にフョードルが殺害されるシーンは、全くなく、殺された事実だけが描かれている。とはいえ結局スメルジャコフにその疑念は向けられるのだが。そのスメルジャコフが、フョードルの殺害を止めることが出来たとイワンに精神的な攻撃をした結果イワンは「悪魔」に憑かれるが、その「悪魔」にやはり『決壊』の主人公も憑かれてしまう。こう書きながら『決壊』という作品は『悪霊』的でもあるのかなと思いはじめている。イワンがみる幻覚は『悪霊』的なもの、ニコライなのだろうか。そういえばイワンもニコライも無神論者だ。話を『決壊』に戻そう。となると主人公の死は一体何なのだろうか。ニコライの自殺か。それとも事件を起こした鳥取の少年の両親が責められる責任としての死なのか。

非常にグダグダ書いたが、まぁそういうことだ。

『取替え子』を読んだのだが、どうにも、読んでいるときの状態が良くなかったのか、非常に弱った。特に反復される悟良の「あのこと」を書いたメモ、台本を読んでいるとき、どうにも苛立ちを覚えた。この感覚は久しぶりだった。

しかし対談集を読むと、大江健三郎のスタンスがはっきり書いてあったので、とりあえずよくわからんがすんなりいった。