カッコーの巣の上で

 テレビで『カッコーの巣の上で』を見る。いつも思うのだが、この類の作品に対して何かいうことがあるのだろうか。見終わったあと、ただ沈黙による静寂だけで、十分なのではないかと考えてしまう。しかし語りだしたい欲求があるということは否定できず、それがただの自己顕示欲ではないことを祈るばかりである。おそらく厳密な論理のいきわたったところ、その一方感情がにじみだすところ、そしてその二つが絡みあう場所があるところを忘れていけないのではないか。そう自分を諭し、話を進めたい。

 と上で言ってみても何も言えやしない状況にあるのかもしれない。
 主人公がした行為が許しがたいものではないように思う。同時に世界から離れるためにきた人々は、主人公に求めてはいけなかったのではないか。それは自ら得られなければいけなかったのではないか。こう書きながら、この日記が自らに跳ね返ってくるのひしひしと感じる。ではお前は誰かに求めてはいないのか、という問いだ。
 
 果たして理性=人間という構造は成り立つのだろうか。そもそも理性とは。はっきりいってしまえば知的障害者に理性があるのかという問いである。彼らに理性がないとすれば、彼らは人間ではないのか?私たちは彼らが人間であるとおそらく答えるであろう。少なくとも私はそういう。だとすれば理性=人間を私は認めることはできない*1。そもそも、理性=人間という単純な構造を取り上げることがないのだろうけど。

*1:追記20080206 彼らが人間だと答えるから、「理性=人間」ではないのだとすると、そのための理屈が必要だ。…それとも理屈をつけなければならないということが、人間をさも理性のものとする、傲慢な前提条件なのか。どうやら視点を変える必要性があるようだ。