2014年3月23日

長い夢だったが、憶えていているのは、住宅街で家が四軒燃えている事だけだ。俺は紛れも無く同一犯によるものだと思った。

遅い朝食を取り、洗濯と掃除をする。埃を逃がす為、窓を開ける。煙草を吸いながら外を眺めていると一軒家から少女が飛び出した。黒のジャケットに真紅のスカート、路上で一回転、更に一回転、もう一つおまけに一回転。スカートの裾がふわりと浮き上がり、外に伸びていく。どこかに出掛けるのだろう、母親と父親が家から出て車に乗り込む。俺は窓を閉めシャワーを浴びた。

今日も天気が良く風が無い。菊地成孔とペペ・トルメント・アスカラール「戦前と戦後」が耳許に流れる。同級生の自死について考える。なぜ?この問いに答える者は誰もいない。あるのは今亡き人に対する態度、振る舞いである。彼が卒論の題材に扱ったショーペンハウアー自死を禁止こそしなかったにせよ、事の解決とはしなかった。いつもこれが頭をよぎる。そんな事を考える余裕すら無かったのだ、判っている。
川沿いを歩く。小さな羽根虫の集まりが陽を集め、視界に光のモザイクを掛ける。生の躍動を手で除け、道を進む。浮かんでは消えていく思考の静まり、耳許の演奏のフェードアウト、風景の中に溶け込んでいく一瞬、すぐさま立ち上がる言葉の残滓、始まる演奏。たったの一瞬を求めてやまない。

公園のグラウンドでは中学生がサッカーの試合をしている。ベンチに座り、試合を見守る。土をまとったユニフォーム、足元で沸き上がる土埃、忙しない線審。芝生の観覧席ではラケットバッグを枕に女の子たちが日向ぼっこをしている。試合は拮抗している。スマートフォンを弄りながら、 夜に向けて吹く風にマフラーを巻き直す。

スーパーに立ち寄り家路を向かう。マンションから飛び出した男女がさらりと唇を重ね、足取り軽やかにどこかへ向かう。三月、髪を切る理由にならない理由、春なのだと思う。

ラジオを聴く。流れる音楽をBGMに夕飯の支度やらネットサーフィンに繰り出す。ピアノが流れる。演奏者はティグラン=ハマシヤン(Tigran Hamasyan)だという。