藤田直哉著『虚構内存在』を読んだ。
本書は筒井康隆が提唱した「虚構内存在」及び「超虚構理論」が論じられる。
「虚構内存在」及び「超虚構理論」とは、
本論で詳細に論じるので、ここでは非常に単純化して述べるが、それは、
- フィクションの中のキャラクター
- 文字に書かれたもの全て
- メディア越しに「現実」を理解するしかできず、自らの生を支えるために理想や理念・思想などの様々な「虚構」を必要とせざるを得ない我々の生
を指す。
その虚構内存在の思想が語られる前提となるのが「超虚構理論」である。
「超虚構理論」とは、
- 虚構の中にも存在を感じ、実際に生きている自分も登場人物であると思うかのような人間観
- 現実もまた虚構かもしれず、虚構もまた現実かもしれないという虚構と現実の境界の融解の認識
- 信念や思想もまた虚構であり、人間はその虚構に操作されて内面もあるのかないのかわからない
という性質のものである。
藤田直哉著『虚構内存在』p10より引用
と説明される。
本書で言及されるのは筒井康隆が言及してきた、フリードリヒ=フォン=シラー、フロイト、ハイデガー、ヴォルフガング=イーザー、フッサール等である。
特に私が面白く読んだのは、ハイデガーの「共同存在*1」が、虚構内存在への感情移入によって、虚構内存在と「共同存在」たり得るという考えである。
他方、虚構内存在を殺し、死に至らしめ、性欲の対象にする事によって、感情移入を得る現存在である我々にとって、虚構内存在に倫理的な態度を求めれば、虚構内存在の意味が損なわれ、「共同存在」という関係を結ぶ事が出来ないという矛盾を抱えている。
上記の引用の通り、我々は現存在でありながら、虚構内存在であり、著者は虚構内存在と共通項から、最終的に虚構内存在との関係を剥奪されない権利―虚構権を提案する。
著者を知ったのは2000年代に行われた東浩紀のゼロアカ道場になる。最終選考に残ったのは坂上秋成と村上裕一だった。著者の活動を知り、その後も共著等を読んで追っていた。彼らの単著を読み終え肩の荷が一つおりた感じがある。どこまで理解出来たかは別として。
- 作者: 藤田直哉
- 出版社/メーカー: 作品社
- 発売日: 2013/01/31
- メディア: 単行本
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