『ファウスト』はアレクサンドル=ソクーロフ監督作品の権力者4部作最終章という位置付けとの事である。
これまでに公開されたのは、アドルフ=ヒットラーを描いた『モレク神』、ウラジーミル=レーニンを描いた『牡牛座 レーニンの肖像』、昭和天皇を描いた『太陽』である。私は『モレク神』は未鑑賞であるが、レーニンの晩年を描いた『牡牛座 レーニンの肖像』、昭和天皇の煩悶する日々を描いた『太陽』を観れば、権力者を人として捉え直している事が判る。しかし、本作は歴史上の権力者ではなくゲーテ作「ファウスト」を描いたものだ。本作を見終えた後、Wikipediaでファウストの粗筋を読んだのだが、一度読んだであろう原作をすっかり忘れていた。ファウストとメフィストフェレスが侃々諤々と語り合う話だとばかり思っていたのだが…。
ソクーロフが描く「原作より自由に翻案」したという『ファウスト』は、学があり研究を続ける貧窮したファウストが金貸のメフィストフェレスの元を訪れるところから始まる。メフィストフェレスに連れられ、ある若い女性と出会う。そしてメフィストフェレスと「彼女と一夜共に過ごす契約」を交わし、契約の犠牲に世界の果てに行き着くという物語である。
この物語を観ながらどこに「権力者」がいるのか訝る事になった。若い女性との一夜を欲するファウストが「権力者」なのか。ファウストを唆すメフィストフェレスこそ権力者なのか。街中を彷徨うファウストとメフィストフェレスがぼんやりと映るスクリーンを観ながら思ったのだった。
権力者はただの人である。では何が人を権力者に変えるのか。何事かを自身の意のままに欲する事からであろうか。本作ではメフィストフェレスが少女を欲するファウストを見て「それは肉欲だ!」と指摘しており、極めて素朴な欲求として描かれている。そしてその極めて素朴な欲求をメフィストフェレスとの契約で実現させる。
二十世紀の権力者たちが―メフィストフェレスとファウストが契約を行ったように―自身の欲求や理想を実現させる為に様々な犠牲を強いて―いや、しかしそれこそソクーロフが先の三部作で終わらせた20世紀の権力者たちの神話だ。現実は、悪魔の契約では無く官僚制という巨大なシステムに翻弄される「権力者=ただの人」の姿があっただけなのである。
だとすればこの映画は、権力者たちが権力者と呼ばれる前、人である時に観たであろう「権力者へ至る夢物語」であり、他方わたしたちが「権力者に望む夢物語」でもある。このように書きながら私自身が権力者に望む夢物語、つまり神話の解体を出来ていないようなのだ。
若い女性と一夜を共にしたファウストは、その女性の肉体を惜しみながらもその場を後にする。そしてメフィストフェレスに連れられ世界の果てに辿り着く。メフィストフェレスを岩に生き埋め、氷河を前に高笑いを上げながら消えていく。その姿はあらゆる欲求から解放され自由の身にも見え、少し捨て鉢になったていでもある。
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