『さようなら、ゴジラたち―戦後から遠く離れて』

加藤典洋著『さようなら、ゴジラたち―戦後から遠く離れて』を読んだ。
小野俊太郎著『ゴジラの精神史』より引用されており、本書でゴジラを扱ったのは「さようなら、『ゴジラ』たち―文化象徴と戦後日本』、その補う内容として「グッバイ・ゴジラ、ハロー・キティ」がある。ここでは「さようなら、『ゴジラ』たち―文化象徴と戦後日本」を中心に著者のゴジラ論を追う。

まず著者は現状のゴジラ論に不満があると語る。その不満とは、ゴジラを映画制作者の意図から説明したものが大半だからだと言う。ここでいう映画制作者の意図とは、一九五四年三月に起きたビキニ環礁でのアメリカ水爆実験による第五福竜丸の被曝とその環境汚染を発端としている。プロデューサー田中友幸は「キングコング」、「原子怪獣現わる」を元に水爆実験の抗議の気持ちからゴジラを構想したと語る。また監督本多猪四郎は二度応招され中国大陸で兵士として過ごし原爆投下直後の広島も目撃し、戦争を繰り返すべきでは無い、水爆実験にも反対であるという気持ちを込めて映画を作ったと語る。またゴジラの東京の破壊を一九四五年三月一〇日の東京大空襲を再現する気持ちがあったとも語り、著者はこれには異論は無いという。しかし著者はここでゴジラを水爆実験に抗議し、平和を希求する反戦映画だとする事に反論する。なぜ第一作「ゴジラ」は人を惹きつけるのか、その後シリーズ化された理由とは何なのか。水爆実験に対する抗議と反戦という理由では、第一作「ゴジラ」の説明は出来るものの、その後のエンターテイメント路線を考えれば、それ以外の理由があるはずだという。そして著者は映画制作者の意図に引きずられ、作品本位の分析が為されていないのでは無いかと語り、制作者の意図から独立したメッセージを観客が受け取っているとして、作品を独立した存在として扱うロラン=バルトのテキスト論を採用しゴジラを考察する。

まず著者はなぜ南太平洋の海底から何度も日本にだけゴジラがやってくるのかと問いを立て、その理由を亡霊であるとする。第一作「ゴジラ」は非常に多義的に語り掛ける内実をもっているが、その意味の多元性を支える基体的な意味像があり、第二次世界大戦の日本における戦争の死者、より具体的には戦場に言ってそこで死んだ死者たちの「行き場の無さ」の体現物になっていると言う。第一作「ゴジラ」が日本人の観客に強く訴えた理由は、戦争の死者の多義性をゴジラがこの上無く見事に体現していた為なのだ。ゴジラは東京大空襲を思わせるスケールで破壊を繰り返し、一九五四年の観客に向けて「自分がそのために死んだ国は、いま、どこにあるのだ?自分の祖国はどこに行ってしまったのだ?」と嘆くかのように夜の中で咆哮する。同時にゴジラは無辜の人々を殺戮する憎むべき存在でもある。

ゴジラは銀座方面から都心に向かい、桜田門の警視庁を踏みつぶし、国会議事堂に達しこれを破壊した後、隅田川方面に戻る。このゴジラの「一九五四年のターン」を川本三郎は「ゴジラは、たぶん戦争の死者たちなのだが、そのゴジラでもってしても、皇居を踏みつぶすことはできなかった、それほど、天皇制の呪縛は、日本の国土の一木一草にまで及んでいるのだ」と指摘。これに対して赤坂憲雄は、三島由紀夫の「英霊の声」との比較に立ち、「戦争の死者たるゴジラは、天皇に会いに来たのだが、皇居にはもう自分たちを戦場へと行かしめた統帥権者である現人神であらせられた天皇はいない、天皇は、人間宣言して、いまや新しい神たるアメリカのもとにあり、自分たちを見捨てたもうたのだ、と知って、踵を返して、帰っていったのだ」と指摘する。著者は赤坂説を採る。ゴジラは、天皇という神がいなくなった後、日本に現れた、戦後の日本人の心の源郷を指示し、昭和天皇がいまやかつての呪縛力の根源であることをやめた、その事を誰の目にも明らかにするため、日本に再来したのだと言う。つまりゴジラ=戦争の死者の苦しみの深さは天皇の呪力とともに天皇を越え、取って代わるものになっているのだ。
また登場人物である山根博士、恵美子、新吉少年の三者の関係は、過去、現在、未来を漠然と示しつつ、同時に日本の知識人、日本の一般国民、そしてアジアの被侵略国の人民といった関係を示しているという。新吉少年の出身地であり、ゴジラがその姿を露わにした大戸島は、大日本帝国に蹂躙されたアジア諸国の面影を見出すに至り、「日本国家の自存自衛と東洋の白人支配の打倒のための戦争に散った死者であり、かつまた、アジア諸国の蹂躙し二千万の死者をもたらした侵略戦争の先兵であり、いまとなっては意味づけようのない否定されるべき戦争への加担者という、戦争の死者それ自体の多義性だけでなく、東京大空襲の米軍でもあり、アジア空爆の日本軍であり、かつまた原水爆の落とし子であると同時に原水爆そのものでもあるという、戦後日本全体の核心部をなす構造的な多義性」をゴジラが帯びる事になると著者は指摘する。

更に著者はゴジラが東京湾の海底でオキシジェン・デストロイヤーによって死ぬ姿に戦艦大和とその死者たちの連想すると語る。特撮監督円谷英二が用意した、戦後日本にまだどこにも存在いない戦闘機が何機もゴジラに襲い掛かり機銃を掃射する姿に、二百数十機もの米軍機が飛来するなか、それを迎え撃つ戦艦大和の姿を思い浮かべるのだと言う。

『ゴジラ』はなぜ何度も日本にやってくるのかという問いに著者は『キングコング』シリーズに見出す。アメリカの文化象徴もまた続編、リメイク版ではニューヨークに繰り返し現れている。アメリカはアフリカ大陸からの「奴隷」貿易により南部の綿花地帯への労働力の供給を得て、国力を増し、南北戦争を経た後、現代の隆盛の基礎を築いた。一九三〇年代の最新の現代文明と人権尊重と民主主義の代表を自認するアメリカにとって、黒人奴隷の導入は、直視する事のためらわれる過去の暗部となる。その後ろめたさが、キングコングという不気味なものを作り出したのだと言う。そしてフロイトを引き『キングコング』と『ゴジラ』が特別な存在である事を説明する。フロイト曰く「自分に身近なもの、親しいものが、いったん排除され、抑圧され、隠されると、それは「不気味なもの」として再来してくる」。フロイトはドイツ語で「不気味な」を指す「unheimlich」という形容詞は、その語幹において「親しい、身近な」を指す「heimlich」を含んでいる事に注目したのである。『ゴジラ』はまさに「不気味なもの」として一九五四年にスクリーンに現れた。反水爆、反戦と平和希求の映画として解釈したのは、この「不気味さ」から目を逸らすための、日本人の防衛機制であったろうと著者は考える。
上記を述べた著者は『ゴジラ』が五〇年に渡り二八回作られ続けた答えとして、「不気味なもの」を衛生化、無菌化、無害化し、戦後の社会に馴致させる為だったと語る。白人のアジアにおける植民地支配の解放という大義名分のもと、アジア隣国を侵略している事の後ろめたさは対米英開戦で帳消しになり、そこでの死者は祖国を守る為の尊い犠牲であり、敬意を感じない事は難しい。しかし戦争が終わり、天皇は東京裁判で免責され、米国に感謝を抱く新米派に変わり、支配者層も徐々に新米に転じる。一般の日本人は、新しい価値としての民主主義を受け入れ、これまでの国家の大義名分と実態の落差を知った上で、戦前の価値を肯定出来ない。その結果、戦争を生き残り、平和と民主主義の新しい価値の素晴らしさに気づいた戦後の日本人と、かつて聖なる戦争で死んでいった戦争の死者との関係が宙に浮く。戦後の観点から戦争の死者は、国民の義務として国の命令に応じ、戦争に赴き、国を守るため尊い命を落とした。しかし同時に、他国の人々に多大な被害をを与えた侵略戦争の先兵だった。戦争の死者に向かい合うとは、この両義性の感覚を持つ事であり、第一作「ゴジラ」が公開された時、日本人にはこの両義性が生きていた。しかし、日本社会はこの両義性を向き合う事無く、浅く民主主義を倣った。そして戦争の死者たちの両義性は行き場のないものとして残った。
ゴジラシリーズはその後、その他の怪獣を登場させてゴジラを相対化させ、子どもをもうけ教育パパとさせ、おそ松くんのシェー!をさせ、製作可能で操作可能なメカゴジラとなり、「不気味なもの」を無害化し社会に馴致させる。その結果、人気は低迷し、何度か打ち切られ、更にゴジラは「かわいく」され、ポケモン、ハロー・キティまであと一歩の距離に至る。

最後に著者はゴジラにはやり残した事があり、それをしなければ成仏出来ないと言う。それは夜、品川沖から東京に上陸し、靖国神社を破壊する事なのだと言う。

以上の内容の他、芹沢博士、尾形、山根恵美子の三角関係を考察した箇所や芹沢博士と山根博士を戦中派として考察した箇所等がある。
現在、日本版ゴジラが再度作られる事が発表されている。そのゴジラは何が出来るだろうか。既に発表されたゴジラシリーズを眺めても、現状の日本を眺めても背負わされたものが多過ぎるという印象を抱く。去年発表されたアメリカ版ゴジラはガメラ的なものだったが、しかし日本では描けなかったであろう、原子力発電所の破壊や津波を、批判も折り込み済みで描いて見せた。また「巨神兵東京に現る」は何の説明も無く東京を壊滅させた。最早ゴジラは破壊をするだけでは納得されない。ここまで考えると暗澹たる気分になるが答えは一つか二つになる。日本のゴジラは何も描けない。戦後七〇年という中で放置された問題は大きく膨らみ、ゴジラでは何も出来ない。そしてもう二つ、何も出来ないという事、絶望を描くのである。何も無いところから作りなおさなければならない。極端過ぎるだろうか。もちろん、従来のエンターテイメント作品でも良い。おそらく、それでも映画館に足を運ぶ事になるだろうから。