日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で

水村美苗著『日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』を読んだ。
昔、姉が夏目漱石にハマッていた時があった。彼女は『明暗』の続編を書いている現代の小説家がいると家族と話していた。私ははたでその話を聞きながらその小説家を、スゴイ人だなと思った。その理由、なぜその小説家は、文豪にケンカを売るようなことを、もしくは批判をモロに受けような仕事をするのだろうかと。その時は名前も知らなかったが、水村美苗に対する私の最初の印象はそういうものであった。
斎藤美奈子の文芸時評を読み、日本近代文学とは何なのか、という問いがまず私の中に残った。そしてその問いが『日本語が亡びるとき』にあるのかと思っていたが、そうではなかった。この本において日本近代文学ははっきりと定義されていない。とりあえずいうまでもなく夏目漱石などが日本近代文学に含まれていることはわかる。ただ、時代による線引きはされていないようだった。しかし著者は斎藤美奈子の文芸時評に書いてあるように第七章「英語教育と日本語教育」において、日本近代文学を叩き込む教育を唱えている。文芸時評を読んだ時点で私にはその意味がよくわからなかったが、著者のいうひらすら日本近代文学を読ませる授業は、その効果はともかくとして私が習った国語の授業とは違うようだ。著者はただひたすら感想も聞かず最後まで読ませることを主眼に置いている。しかも著者は一方においてエリートに対するバイリンガル教育を提唱している。けれどもこのエリート選出の基準もはっきりしない。たぶんどの科目も優秀な人が選ばれるのだと思うが…。さて話を戻すと、重要な日本近代文学は定義はされていない。そんな私が近代日本文学と聞いてイメージしたのは、高橋源一郎の『官能小説家』と『日本文学盛衰史』に出てくる小説家たちの著作である。おそらく著者の考えている日本近代文学における著作とドンピシャリであると思われる。
『日本語が亡びるとき』に載っている日本語の変遷、国語の変遷を知ると著者のような提言をしたくなるのかもしれない。私はこの本を読むまで国語というものがこんな人口的なものだということを知らなかった。文語体から表音形式への移行の話など。しかしだからこそ著者の提言の重みと私が上記で気にしている曖昧さが気になったりする。
もう一つ気になるのは結局学問において諸言語の古典が英語に翻訳されても、その翻訳される前の諸言葉である古典ギリシャ語、ラテン語、ドイツ語、フランス語などが重用されるのでは、という気もする*1。そういう場所に身を置いていた私は残念ながら、水村美苗の言葉を理解できる場所にいないようである。彼女がこの本で述べることを痛感する日が果たしてくるのだろうか、それともとっくにきているのか。

*1:これは哲学を勉強する場合。学問する日本人は結局三ヶ国語(日本語、英語、もう一つの言語は専門対象の言語)は読めるようにならないと厳しいのでは。少なくとも大学において教授らはそういっていたが。とはいえ英語が前提になっているから水村美苗の思うツボか。