ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る

梅森直之編著『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』を読んだ。

水村美苗の『日本語が亡びるとき』はベネディクト=アンダーソンの『想像の共同体』を下地にしながら書かれていた。私は『想像の共同体』は未読である。

『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』はベネディクト=アンダーソンが『想像の共同体』や19世紀のナショナリズムについて語った講演を新書化したものである。私は『想像の共同体』の入門書代わりにこの本を読むことにした。

本書の説明によるとベネディクト=アンダーソンはインドネシア、タイ、フィリピンを中心とする東南アジア研究、ナショナリズムに関する理論的研究で知られているらしい。私はナショナリズムと東南アジアの結びつきがわからなかった*1。講演によると、1970年代にポルトガル帝国崩壊による植民地解放が起きたこと、同時にヨーロッパの国家の中の地域からナショナリズム運動が湧き上がってきたという。そんな中で、ナショナリズムについての議論がイギリスを中心に起こりその議論に参加することになった。またマルクス主義を掲げる中国、ベトナム、カンボジアが戦争を始めたこともナショナリズムを考えざる負えない理由になったともいう。

本書の題名になっているグローバリゼーションに関するアンダーソンによる講演が、面白い。現在を後期グローバリゼーションとして、電信などが活用されるようになった19世紀を初期グローバリゼーションとアンダーソンはいう。この電信、郵便の発達により個人、出版などのメディアが情報を瞬時に伝えることが可能になる。このネットワークによって反帝国主義者、ナショナリストたちはつながりを持ち、互いに影響を与えながら、活動をすることになったという。彼らをアンダーソンはアナーキストといっている。左翼である無政府主義、共産主義のネットワークは技術の発達と結びつくことによって広がったのだ。しかもアナーキストたちは多数の言語を扱うことによって、その運動を、世界に訴えたという。

ここでアンダーソンは言語を学ぶことの重要性を訴えている。しかし水村美苗に言わせればそれは甘いというわけだ。

しかしアナーキストのネットワークといわれると、アンダーソンも指摘しているがオサマ=ビン=ラディンが思い浮かぶ。彼らがインターネットなどを使って世界各地に犯行声明、行動を訴える様は、初期グローバリゼーションと本質的には変わりはないように思われる。しかし現在と従来の初期グローバリゼーションのメディアでは異なる点があるはずで、瞬時に情報を伝えるという以外の力というものがあるはずだ。例えば映像。世界を駆け巡った9.11アメリカ同時多発テロの映像は文字情報なしで、強烈なインパクトを与えてくれた。
 
今年の3月に読んで、再読をしたりしたが、結局メモ書き程度の内容になった。

ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る (光文社新書)

ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る (光文社新書)

*1:こういうのがオリエンタリズムというのだろうか。日本人の私がオリエンタリズムというのも可笑しいと思うのだが。ただ以前から気になっていることがある。それはクリント=イーストウッドが手掛けた『硫黄島からの手紙』と『父親たちの星条旗』を観た時の感想である。私は日本人の視点で描かれた『硫黄島からの手紙』よりアメリカ人の視点で描かれた『父親たちの星条旗』を理解できたような気がした。私は『父親たちの星条旗』の登場人物の心情がわからなかった。この二つの映画鑑賞以来、戦前の日本と戦後の日本には断絶があると、私は思うようになった。その断絶とは、戦後のアメリカによる日本占領による様々な政策による日本の変化のことだ。その断絶が『父親たちの星条旗』に対して私を無理解にさせている。つまり私は日本がアジアにあるにも関わらず、欧米に近い立場にあると思っているということだ。ただしこの感想には二つの点で注意が必要だと思う。まず私が考える戦前の日本が、明治維新以降の日本でしかない可能性。また映画という物語の演出効果に誘導されている可能性である。