ケータイ小説的。―“再ヤンキー化時代”の少女たち

 速水健朗著『ケータイ小説的。―“再ヤンキー化時代の少女たち』を読んだ。
 文化系トークラジオLife「地方を考える」というテーマの回において著者も登場し、この本を手掛かりにした議論が行われていた。この議論における都市論、再ヤンキー化なるものが気になったので手に取った。ケータイ小説を読んだことはない。なのでここではケータイ小説を問題としない。というか、そういう状態でよくこの本を読んだものだと思う。とはいえこの本は、ケータイ小説が読まれる環境を上から目線ではない、同じ目線で考えていてかなり好感がもてる。
 
 表紙がいい。なまめかしい。

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

 (追記20080917)
 足がついたヤンキーというのは納得。以前地元のコンビニでバイトしてたら同級生のヤンキーに「手に職つけなきゃ駄目だよ」とやさしく諭されたことがある(笑)。
 私の地元には何もない。コンビニが主要幹線道路沿いにありいわゆるミリオン店らしい。あくまで通過点なのである、私の地元は。みな遊びには車で地元を出るのだ。
 しかも最近電車に乗っていれば、女子高生が地元の駅の名を語り「あそこは不良多いらしいよw」なんて友達と盛り上がったりしている。
 そういえば中学生の時、浜崎あゆみが好きなヤンキー女は、特にその女は勉強すれば結果を出すタイプの人間で個人的に面白い奴だなと思っていたが、中学卒業後いわゆる「ギャル雑誌」の表紙を飾っているという話を聞いた時は驚いた。そんな彼女も最近結婚し、それを理由に雑誌を引退したらしい。そういうところが意外にも古い観念、というか『ケータイ小説的』の観点からすると、むしろ納得のいくところなのだろう。ちなみに彼女は地元に残っていないはずだ。
 そんな地元は、昼にフラッと家をでれば、それはもう牧歌的な、私にしてみれば空虚さに満ち溢れている場所なのだ。