平野啓一郎と現在の文学について語ろうとしたが…そんなことデキルはずもなかった。

 最近、演習の発表が二つほどあった。一つは使っているテキストをまとめる。もう一つは好きなものを前期の授業で使ったテキストに触れながら論じる、というものだった。そして私は後者の発表を平野啓一郎の小説を使って発表することに決め、発表の一ヶ月前から準備を始めた。準備といっても読んでない平野氏の小説を読むぐらいのものだった。そして平野氏の『葬送』以外はとりあえず読み終えた(『葬送』は今読んでいる…)。とりあえず発表の仮題目は「平野啓一郎とネットとの関係」としていたから作品としては「最後の変身」「顔のない裸体たち」を中心に論じることになりそうだった。でもそれだけではもったいない…というかそんなこと論じれそうにないから、平野氏の短編をとりあえずざっくり紹介することにした。これでとりあえず発表の内容は適当に確保できるだろう、と考えた。そこで問題になるのは「ネットとの関係」である。仕方なくネットというものをテクノロジーというものに拡大解釈して、たまたま見つけた尾崎真理子 著 『現代日本の小説 (ちくまプリマー新書)』と絡めて論じようとした。そして『現代日本の小説』で尾崎氏が考えている―文芸評論家加藤典洋も自著で論じている「村上春樹阿部和重綿矢りさの登場人物に見られる多重人格化」をこの平野氏の前述した作品に当てはめてみることにした。ちなみに多重人格化は尾崎氏によると手書きからキーボード、そして日本特有の漫画の過剰表現などなどが相まって作者の手から離れて作者の人格から乖離した別の登場人物が生まれる云々というものだ。*1そこまででよかったのだろうが、『現代日本の小説』の内容にひっぱれられる形で東浩紀氏のポストモダン論やらゲーム的リアリズムに触れてしまったのが失敗だった。『現代の日本の小説』は東氏の上記の理論やライトノベルで活躍する作家たちの試みをもって終わるのだが、やっぱり私はそこが理解できていなかった。そこに最後触れたために実際の発表はなんだかよくわからなくなった。もちろん一番は自分のプレゼン能力であり発表中に「あっ〜」とか「うっ〜〜」「………」とかやっているのが一番の問題だ。まぁ自身のプレゼン能力はあとで反省するとして、この多重人格化を平野氏の登場人物に当てはめたの無理だったか。というのも平野氏の登場人物は多重人格化というより自身の内面の多面化がネットによって進むことにより弊害、それを問題にしているようだからだ。内面の多面化と多重人格化が同じ意味を形成するのかが問題だ。そこに吟味が足りなかったか。しかもそこに理解していない東浩樹のゲーム的リアリズムがどうしたとかいっちゃたもんだから。東氏を勉強しようと思う。ちなみに最初に平野氏の短編小説を紹介しているときは割りと反応がよかった。発表の内容に対する注文としてネットで自由に、発表にあったような小説を書けるのに本で発表するのかなぜ?なぜ純文学で書くのか?とかいったものだった。そういう質問に対する答えは『ウェブ人間論』や『モノローグ』『ディアローグ』にあるのかもしれない。というかそれは私なりに考えて出すべき答えか。

*1:この辺ちょっと適当にまとめすぎたか…