2014年4月9日

実家の住宅団地を歩いている。掃除機のようなものから水霧を噴射しながら室内の壁クロスを掃除する様子が割り込む。実家の敷地から数匹のゴールデンレトリバーが飛び出して行く。敷地内に仔猫がおり、仔猫を連れ戻そうと複数の猫が杉林から姿を見せた。すると猫の飼い主らしい大柄の女性が現れる。「猫の飼い主は私だから」「そうやって事前に伝えて猫を守ろうとしているの?」「そうよ」仔猫を咥えて親猫が逃げて行く。まだ家の周りにいる猫に無駄と知りながら石を投げる。無駄骨だ。

曇天。耳栓とアイマスクを外し雨戸を開ける。チョコレートのスナック菓子が甘い。もうカーディガンは要らない。マスクは必須。駅まで歩くだけで鼻がむずつく。よくこれで花見の時平気な顔をしていたなと思う。ウェザーリポート「ヘビーウェザー」、ベース音から始まり、軽やかに、アフリカのよくわからん言葉と共に流れていく。駅構内は電車が到着する度、風があちこちを舞い、長い髪を乱す。便意を感じながら電車を待つ。

数珠をまとった腕を車窓の反射に見掛ける。信仰?魔除け?開運?幾つかの新興宗教の名前が頭をよぎる。朝、ネット上で読んだ池上彰文化人類学者の対談の一部を思い出す。昭和的価値観、会社による終身雇用制度が揺らいだ事によって、必要となるのは昭和的なサラリーマンが持つ価値観とは別の回路、文化人類学者は宗教と表現しているが、別の価値観を複数持つ必要があるという。これは平野啓一郎がいう分人主義、アイディンティの複数性が必要という事と一致している。近代的自我、文学に於いてそれは肥大化して描かれてきた。しかしそれは今後複数性を取る事になる。しかも多重人格では無い、自然な複数性、顕著に表れるのはSNS等のネットであろう。肥大化では無く複数、それは自己同一性から解離した矛盾として捉えられるかもしれない。しかし本人にとっては何ら矛盾していない。俺が記したこのブログはそれを表しているだろうか?

仕事中、昨日の件があったので余計な事を言わないよう、仕事に集中する。常に集中しろと言われればそれまでだが、効率に変化がある訳では無い。こんなのはただの見た目だけなのだ。

マスクは脱臭炭が使用されている高めのものを利用したところ非常に快適だ。マスクが湿気を帯びても臭わない。これは俺が求めていたマスクだ。そしてひたすらガムを噛んでいる。顎が痛くなるほど。仕事中にガムを噛むのは煙草の代替品という面もあるし、気を紛らわしたいという面もある。顎関節が軋む。

漂白剤の匂いがする白いシャツ、白いインナー、白いブリーフ。身体に食い込むゴム紐、赤みを帯びた肉。シャワーの流れと共に指先から溶け出した肉体は峡谷となり血を導いていく。溶けた肉は排水口に流れ始めた。肉の塊の中で絡まり合う神経、水に放射される電流、意識が肉の上を滑り排水口に傾く。溜まった水が渦潮を作る。大きな音をたてて肉は一片残らず排水口に流れた。シャワーヘッドからはお湯が滔々と流れ続けている。