2014年6月10日

今日が何回目の朝なのか、三百六十五日掛ける事二十数年。溜息が漏れる。

午前六時。二度寝、三度寝を繰り返し辿り着いた昨日の今日。シャワーを浴び新調した下着と上着を纏う。何度来たか判らない肌に馴染んだ服もいずれ捨てられる。あらゆるものを雑多に溶かした濁った水のような日常。解けきれなかった澱が光を遮る。

モザイク模様の隙間から見える肌、胸元から漏れるアクセサリーの光沢、耳許から響く愛と諦念の歌。鼻を突く香水。風が吹き、駅構内に埃が転がる。

電卓を叩き六十歳までの日数を確認すると二万と数百日。二十万の給料と給料三ヶ月分を叩けば三百六十万、どれも自分とは程遠い数字である。

何事も無く一日が終わる。そして苛立ちが募る。外から聞こえるTVの音声、救急車のサイレン、ヘリコプターから発せられる振動、曇天。男の子が帰って来た。わざわざ隣室を伺ってから二階に上がる。まだ母親が帰って来ていないのは自転車が無い事で判っている。子どもは隣室に戻って部屋の中にいる男性に声を掛ける。「おばちゃんは?」どうやら今日は不在らしい。しかし子どもは本当に自室の鍵を持っていないのだろうか?なぜ母親は自室の鍵を渡さないのだろう。男の子はやはり「鍵を持っていない。」という。むしろこう考えるべきだろうか。早く家に帰りたい、むしろ家でおばちゃんと遊びたい、それ故に学童保育を早めに切り上げてくる。そんな事を考えている間に母親が帰ってくる。男の子は母親に学校での出来事を伝えている。「五十メートル走があったの」「どうだった?」母親が尋ねる。声が遠ざかっていく。どうにもならない事を知り過ぎてしまう。業務が閑散期だとはいえ早く帰って来るのも考えものだなと思う。

外は静かになった。後は夜が更けるのを待つだけだ。