金閣寺

 三島由紀夫著『金閣寺』を読んだ。
 平野啓一郎が多大に影響を受けたという三島由紀夫の本を読もうと思い、積読状態だった『金閣寺』を手に取った。私は今回初めて三島の本を読んだことになる。以前から読もうと思っていたのだが小中学生の時利用していた図書館にはなぜか三島の本は一冊もなかった。三島由紀夫と図書館のパソコンで検索すると猪瀬直樹の著作が表示されるだけだった。三島の本もこの図書館にはないのかと憤り、残念な気持ちになったものだった。またこの話は関係ないのかもしれないが、三島は市ヶ谷駐屯地に勝手に侵入し割腹自殺をしたために犯罪者扱いとなり、教科書などには掲載されないらしいという事を聞いた。この話を聞いた時、あの図書館はもしかしてそういう事情によって三島由紀夫の著作を自主規制していたのかもしれないと私は思った。しかしそれが事実なら図書館の行いとしては問題になりそうだし、違う理由だろう。そもそも三島由紀夫の著作が教科書に掲載出来ない、という話も怪しいものだ。
 また三島由紀夫の話においてよく覚えているのは大学生の時、ある教授が「外国でワインを飲みながら三島由紀夫の著作を読むことほど贅沢なことはない」といっていたことだ。外国語が飛び交う中で三島の美文に触れることがたまらない快感なのだそうだ。
 さてそんな話を聞きながら良い環境で三島の文章に触れる機会があればなと夢想していたが、現実は残念ながらそんなことにはならなかった。急に持ってしまった暇を、ヤケクソになって読書にあてていた私は、その時間を消費する対象として『金閣寺』を選んだのだ。しかし元々何かを飲みながら本を読むという器用なことは私には出来ないし、そもそもが下戸だから上記の教授のような贅沢な体験は出来やしないのだ…。

 大体の世の古典の結末は知られていて、この金閣寺もその中の一つだ。金閣寺が若い僧によって焼かれると。であるから読書はなぜこの僧が金閣寺を燃やそうと考えたのかという点を読み取ろうとしながら読み進めることになった。
 主人公は父に金閣寺より美しいものはないと教えられ、美が金閣寺と考えるようになるというのは、興味深い。自分にとって美が何であるかと考えるとそこに自分は何も思い浮かばず、空虚があるだけである。そもそも美という概念に対して、それは在るのではなく当てはめるという方がしっくりくるような気がする。また主人公はある美しい女が脱走兵と心中することを語る。この主人公はことあるごとにこの女を思い出す。どうにも十代に時に、心にひっかかりを残す女性はいるかもしれない。しかもそれを以上に過大評価してしまい、その存在が多く意味を持つものとして自分の中に残ってしまうということ。これは誰にでも経験があるのでないかという気がする。しかも主人公は女の死によってその価値観を覆す機会さえ失ってしまう。これは主人公が金閣寺で友人となる人物にもいえることかもしれない。この存在の支配力に常に気をつけたいと私は思っている。
 主人公が金閣寺に火を放つという一仕事を終えて一服し、生きようと思う。ここにたどり着くまでに、金閣寺に火を放つ事ではないが、何かの行為が人それぞれに必要だというのは、わかる気がする。

 平野啓一郎はこの金閣寺を読んだころ「金閣寺体験」とし特別視していた。私は残念ながら特別な体験にはならなかった。しかし私は平野啓一郎の『日蝕』を読んだ時、それを特別な読書だと思った。たぶんそういうことなのだろう。