屍者の帝国

伊藤計劃円城塔著『屍者の帝国』を読んだ。
急逝した伊藤計劃の作品を円城塔が引き継ぎ完成させたスチームパンクSF小説であり、シャーロック=ホームズ、フランケンシュタインカラマーゾフの兄弟風と共に去りぬ等のフィクションの登場人物や実在の人物が入り乱れるパスティーシュ小説でもある。

パスティーシュという言葉は貧弱な私の語彙から漏れている為に高級洋菓子を連想させる…
「洋菓子店「パスティーシュ」へようこそ。当店のパティシエは砂糖も小麦粉も一切使いません。なのでコレステロールも脂肪も気にする事の無い女性に優しいお菓子なのです。」南青山の路地裏で見つけた洋菓子店。店内に入る前にスマートフォンで検索してもお店の名前は出て来なかった。新しく出来たばかりのお店なのだろうか?私は訝しく思いながら店内に入った。お菓子はどこにも見当たらず、やたら細い身体つきの若い男性が笑顔をこちらに向けて先の挨拶をした。「砂糖も小麦粉も一切使わない」、大豆や米でも使っている健康志向がウリの店なのだろうか?果たしてそれは洋菓子と言えるのだろうか?「失礼ですがお客様は最近本をお読みになられましたか?もしくは過去にお読みなった本で印象に残っているものはございますか?」男性を笑みを絶やす事無く薄い唇を動かした。「本、ですか?」何をこの人は言っているのだろう。本を読むのが趣味なのだろうか?しかし初めて来た客に趣味の話をするのはどういう事だろう。そんなに暇なのだろうか?「そう、本でございます。当店のパティシエは砂糖も小麦粉も使いません。但し言葉と物語が必要になるのです。本で無くても構いません。印象の残った文章でも、音楽に載せられた歌詞のフレーズでも…全てはお客様がお望みのお菓子をつくるため、質問させて頂いたのです。」言葉でお菓子をつくる?何かの比喩だろうか?「…失礼致しました、お客様が疑問にお思いなのは判ります。しかし当店のパティシエは言葉の通り、物語と言葉でお菓子をつくるのです、実体を持つお菓子を。もちろん味もあります、カロリーもあります…たぶん。ただ砂糖も小麦粉も使わないのは本当です。」人を馬鹿にするのも大概にして欲しい。こんな店はさっさと出て行った方が良いに決まっている。そう思いつつ私はこの状況を楽しみつつあった。悪ふざけには乗ってやるのが性分、スマートフォンを取り出し、電子書籍を立ち上げる。読み途中のSF小説、急逝したSF作家の作品を芥川賞作家が引き継いで完成させたエンターテイメント小説だ。男性はスマートフォンのタッチパネルを眺めると「承知致しました。」と言い扉の奥に姿を消した。言葉と物語でつくられた実体を持つ形而上学的なお菓子…私は未だ見ぬお菓子を想像したが、それはなぜか苺の載ったショートケーキだった。確かに漫画で見掛けたショートケーキを私は一度も見た事が無い。似たようなショートケーキは見た事があった。しかしあの理想のショートケーキにはついぞ出会った事が無い。オーソドックスな苺の載ったショートケーキこそ形而上学的なものなのかもしれない。お菓子のアーキタイプ、お菓子のイデア…そんな下らない事を考えていると扉が開いた。男性は丁寧な手つきで皿をレジスターの横にある卓台の上に載せた。皿の上には茜色のマカロンが一つ、居住まいを正している。「お待たせ致しました、お客様。当店のパティシエがお客様の為にご用意させて頂いたマカロン「緋色の研究」でございます。」男性は自信に満ちた声でお菓子を紹介した。「糸は入っていないわよね?」と私は噴き出しながら尋ねてしまった。男性は相変わらず微笑みを絶やさずこう言った。「言葉と物語で出来ています故、不純物は一切入っておりません。」と。

とはいえどちらも二十一世紀を生きる我々には虚構内存在である事は変わりない。
友人に勧められて本を借りて読んだ手前どうこう言う気は無いのだが*1、「アフガニスタンの奥地にアレクセイ=カラマーゾフが屍者の王国をつくった。」等と「地獄の黙示録」もとい「闇の奥」の展開の後、大日本帝国を舞台にチャンバラが始まるのだから面白いったらありゃしない。「伊藤計劃が完成させた訳じゃないから読む気がしない。」「円城塔が書いているからどうせ難しい数式の話とか訳判らない事になるんでしょ?」と思っている人にこそさっさと読んで欲しいエンターテイメント作品になっている。

*1:無理矢理渡されたと言っても過言では無い。