2015年3月23日~2015年3月27日

2015年3月23日
自宅を出ると室外機の上で猫が目を細めている。自宅を出る際、エアコンを止めているのでそろそろお暇しようというところだろうか。

寺田寅彦の随筆を読んでいる。

新たに配属された社員と客先に向かう。家族に言葉遣いを注意されるよう言われ、いざ気を遣い始めると言葉少なになってしまう。

どうも身体に疲れが残っているのは何故だろう。元々無いという事もあるが、覇気が無い。

乗り換えた電車の座席に腰を降ろし到着まであと二駅。席を一つ飛び越えて横に座ったのは子どもを抱いた母親。癖毛の子どもは衣から顔を出し大きな潤んだ瞳で辺りを伺う。母親が膝を上下に動かし揺すると突然の刺激に子どもが笑みを浮かべ、自らも身体を上下にして応える。母親と子どもは二人で共に微笑む。誰かと相通じ笑みを浮かべる事は一人では出来ない。頭を壁に載せ車内に掲示された広告を眺める。ため息を深く吐くまであと何秒も無い。

三十代は墓穴を掘り、四十代はその墓穴に落ち還らぬ人になる事も。あくまで経験上からの実感だが。

2015年3月24日
夢を見なくなったような気がする。

上司の意向で書類の書き直しを命じられる。この意向に指針等無く、時と場合で臨機応変さが求められる。

Kindleを漁っていると寺田寅彦は映画論とも言える随筆を多く遺している事が判った。とりあえず何編か読む事にした。ある一編では映画を観る事による刺激で健康になるなんてものがあった。そういえば最近映画を観ていない。クリント=イーストウッドのアメリカンスナイパー、ストルガツキー兄弟の原作を基にした作品に目星をつけているものの、どうにも重い腰が動かない。

弓道具を持った男女を目にしたのだが、帰りにも同じ男女を見掛ける。一日中、弓を引いていたのだろうか?

2015年3月25日
何やら上司たちがこそこそやっている。自分とは関係無いだろうとタカを括っていたのだが、予想とは外れるもので、どうやら自分を含めた先輩社員の事だったらしい。人間、自分には脇が甘いと痛感する。

外出していると袴姿やスーツ姿の若者を多く見掛ける。どうやら近場の大学生の卒業式らしい。同僚たちに話すと「そんな時期ですか。」と少し遠い目をしていう。

2015年3月26日
自宅前のアパートの桜の植栽が蕾をピンク色に染めている。今週には満開だろう。

2015年3月27日
同じジャージに身を固めた中学生の集団が改札前に集まっている。皆、楽しそうにしている。

コートの下には淡い色のワンピースを着た女性を見掛け、もう春なのだと思う。

昨夜の帰り道、人が人として生きる以上、生き難さは所与のものなのでないかという考えが思いつく。何かに満たされようとも、生き難さは消えない。そんな考えは救いようが無いよなとも思う。しかし何故生きていて救われる必要があると思えるのか。

駅構内の出入口が無数の人を吸い込んで行く。

簡潔で味気無い言葉と数字をPCに打ち込んで行く。空調の音は静かに無数のタイピング音が響く。無駄が無い。そしてつまらない。