『重力ピエロ』を読んだ。そして観た。
映画が公開されるという知りまず原作を読むことにした。私は伊坂幸太郎の単行本化された長編は『陽気なギャングの日常と襲撃』『ゴールデンスランバー』『モダンタイムス』以外は目を通している。ただ『重力ピエロ』を読もうとは思えなかった。それは先に『重力ピエロ』を読んでいた家族から、この話は母親がレイプされて生まれた弟と、その兄の話だと聞かされていたからだ。私はその話を聞いて何だか読む気が薄れてしまった。
私は伊坂幸太郎の作品は好きだ。特に『チルドレン』や『死神の精度』が好きだ。ただ今挙げた作品を見ればわかる通り甘っちょろい作品が好きなのだ。私は伊坂作品におそらく深刻なものを求めていない*1。しかし一方でそんな読書に何の意味があるのだろう、と思ったりもする。私はたぶん暴力的な性についての話題にあえて触れないように、知らないフリをしたいのだろう*2。つまり恐れているのだ。しかし現実に目を背ける自分の態度も気に食わない*3。そうやって考えると映画化というのは素晴らしい。そういう気持ちを乗り越えさせ、原作を読む気にさせてくれるのだから。
原作本はバタイユやサド、ガンジー、ゴダールの話題を出しながら、進む。バタイユの性的な考えを自らの考えと照らし合わせて一蹴する弟。これは爽快。ガンジーの考えに惹かれながら、それは理想でしかないと語る弟。これには苦悩。一方、兄弟の苦悩を作り出したレイプ犯はサドの論理を引き合いにして自らの想像力について兄に語る。私はバタイユの思想の概要についてはほとんど知らないが、他の人たちの概要なら少々知っているつもりだ。しかしサドは本当にこんなこといってるのか。小説ではなく、理屈をいってる本に書いてあるのかな。物語は弟の出生の理由から顕れる遺伝と、町の連続放火事件を絡めて進む。遺伝子について私は全く知識はない。だから感心しながら本を読み進めた。また遺伝の話を絡めるなら先日『ありふれた奇跡』でも血のつながりについての話をしたが、この物語では、その遺伝子のつながりを重要視するのではなく、一緒に過ごした時間によってつくられる関係こそが重要なのではないかと思わせるし、それが兄や弟の悩みを解消させる方向へ導く。共に過ごした時間もまた一つ変えられない事実なのだ。これは経験だから遺伝や血より認識しやすい。遺伝や血のつながりの問題はその後から認識されるものなのだ。つまり経験の認識を覆えす事実として後からやってくるものなのだ。だから悩む。今までの経験より根本的なところで違っているのではないかと。
この物語の弟は伊坂幸太郎の別作品『死神の精度』にも登場する。しかもこの物語の冒頭にあたる部分で。そこでの死神千葉との対話もなかなか興味深い。
次は映画の話。非常に良い映画だった。たぶん原作未読でも十分楽しめたと思う。何が良いか、それは小説の核となる部分をとても綺麗な動きとして撮っているからだ。小説部分の冒頭「春が二階から落ちてきた」のシーンを観れただけで非常に良い気分になった。また小説に登場する音楽が、流れる。ああ、こんな音楽だったんだと納得。しかし今までの話題、全部原作読んでないと面白くないっていう話題…。
兄を加瀬亮、弟を岡田将生が演じている。岡田将生の弟役が非常に目を惹く。たぶん配役が良くて、ただのイケメンではなく見えたのだろう。レイプ犯は渡部篤郎だった。このレイプ犯が映画では結構邪悪に描かれている。
撮影場所が伊坂作品の舞台である仙台市になっている。『アヒルと鴨のコインロッカー』と観た際、映される場所に違和感を持ったのだが、この映画ではそんなことがなかった。私が想像していた伊坂作品に描かれる仙台市がそこにあった。これには感動した。
またミステリーとして映画は機能していて、連続放火の謎解きの為に必要なヒントがしっかりと描写されている。注意深い人は映画の中で連続放火事件の犯人を当てることが出来るかもしれない。
また上記に書いた思想家はせいぜいガンジーしか出てこないから、うざったくない。
小説でも映画でもこの兄弟を含んだ家族が描かれるのだが、この家族のつながりが映画では丁寧に撮られてるのも良い。それだけに兄弟の苦悩もことさら引き立って重苦しくはあるのだが。
とにもかくにも良い映画でした。
*1:とはいいながら政治的な内容を扱った『魔王』も好きなんだけど…。
*2:しかし読んでいる本や映画にはいくらでも暴力的な性が含まれている。あくまで伊坂幸太郎の作品に含まれてほしくないという願望ということだ。
*3:そうやってこの本を読んだのだと思う。http://d.hatena.ne.jp/bullotus/20080502/p1 ただそれが私はこういう本も読んでいるので、勘弁してくださいという免罪符になりそうで、腹が立つ時もある。