気狂いピエロ

『気狂いピエロ』を家で観た。
ジャン=リュック・ゴダール監督作品。初めにこの映画を観ようと思ったのだがレンタル中でまず『勝手にしやがれ』を借りて観ることになった。確か件の教授はこの映画を観ろ、と勧めていたと思う。
確かにこの映画は何かが違う。少なくともこの映画に映されるものは私が生活しながら観る世界とは違う。私は自分の日常をこのように観ていない。
当たり前のことなのだが、映画というのは私ではない誰かの視点によって撮られたものだ。映画の撮影という作業においてその視点がどのように決められているかはわからない。監督なのか、撮影監督なのか、おそらく共同作業の中で決められていると思う。そして映されるものには何らかの意図が込められるのだろう。
しかし、上記に書いた教授はそういった意味でこの映画を紹介した訳ではない。彼はジャン=リュック・ゴダールが捉える現実、それが普通ではないという意味においてこの映画を勧めたはずである。つまりこの映画の演出こそがゴダールにとっての現実だというのだ。
だとすればゴダールが観ている世界は奇妙すぎる。退屈な食事会は七色に染まり、朝起きれば死体が横たわっている。海岸にはミュージカルを踊る男女がいる。男と女が一時的に居を構える小屋にはキツネが首輪を結ばれ、オウムは男の肩を止まり木にする。二人の逃避行を見守るカメラの向こうの観客を車の後ろに見つけ語りだす男。旅をする男と女以外はモノの如く暴力と盗みの対象となる。
私はこの映画を観ながら、テレビでちらりと観た北野武監督による『Dolls』を思い出した。それは『Dolls』で見られる色使いによってだろう。その色使いを私は登場人物たちの気分を映し出したものだろうと思った。それが『気狂いピエロ』という映画にも見られると感じた。
私はこの『気狂いピエロ』をかなり楽しみながら観た。男は女の逃避行の中、読書をし、メモを取る。そのメモは映画の先行きを示唆すると同時に逃避行に全く無意味なのだ。しかもそんな思考を見せる男は、女の裏切りに対し激情に駆られ射殺する。そして終末に至っては、「こんな死に方あるか…」と慌てながら死ぬのだ。いくら思考を働かせても、それは実らず死に慌てふためきながら死んでいく。見えているもの、思考、現実は激しく乖離してカメラが最後に捉えるのは死と海と太陽なのだ*1。私はこれを笑わずにいられなかった。まぁ単純に男があまりに下らなくて笑えただけで、深い意味のない笑いなのだけど。

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*1:カミュでいう所のメルソー、ムルソーといったところか。