勝手にしやがれ

『勝手にしやがれ』を家で観た。
この映画は主人公ミシェルの「おれはあほだ、あほだ」という台詞で始まる。こういうのは嫌いではない。というのも私もあほだからだ。しかもあほだと自覚している点で、ただのあほとは違うと思っているからタチが悪い*1。どの点においてあほなのかというと、4月に映画館に通い過ぎて金銭的余裕がなくなった*2。毎週のように映画館に通うのは今の私の経済状況では無理なのだ。そこで今まで利用していなかった某レンタルショップを利用して気を紛らわすことにした*3。何を借りようか迷った。とりあえず一時代前のものから借りようと思った。というのも映画館に頻繁に通うようになってから、古典、名作と呼ばれるものに疎いことが気になっていた。なぜならそれらの影響が濃く出ている映画の面白さがわからない、もしくは気づけないことあるからだ。この機会に映画を観るための共通項を増やせたらいいと思う。
とはいえやはり家で映画をみるのは難しい。モニター、音量が小さいとか、そんなことはどうでもいい。厄介なのは映画館にいるように集中出来ないことだ*4。逆にいえば映画館では集中することが出来る。たぶん私が2時間近く集中できるのは映画館にいる時ぐらいだろう。その点が映画館に行く事の良さであると思う。
今回観たのはジャン=リュック・ゴダール監督作品である『勝手にしやがれ』だ。映画について調べたりするとゴダール、ヌーヴェルヴァーグというキーワードが出てくる。最近だとエリック=ロメール監督の『我が至上の愛 アストレとセラドン』という映画が公開されていた、観にいけなかったが。また小説家も、最近だと伊坂幸太郎がゴダール云々といっていたりする。そういえば大学生時代、ある教授がゴダールが捉えているものは何かヘンな感じだと、観ることを勧めていた。
確かになんかヘンな感じである*5。まず冒頭から主人公がカメラ、観客に向けて語りかけてくる。次に画面の連続した切り替えという演出。なにより時々挿入される、主人公たちが何か気がつき、立ち止まり、考えるシーンのインパクトは強い。例えば主人公がある男のポスターを見てじっと見つめる姿、作家の発言にサングラスのふちをかみながら何かに気がつく女。別にストーリーとは関係なさそうだが、まさにそれこそが映像なのだ、といった感じがある。
そう考えると映画が必ずしも物語を筋道立てる必要はなく、映像のみを見せることも可能だということ気がつく。そこに物語のきっかけを投じることによってどこへ物語が向かおうとも、映像は残るのだ。果たしてそれが映画なのか、作品なのかということはわからないとして。
最初に行われる殺人も全く殺人らしさがなく、かつ簡単に、緊張感がなく行われる。その簡潔さ、格好良さも、その意味さえも希薄のように思える。そのあと追われる主人公もヤバイといいながら、そうヤバクなさそうな感じ。
主人公たちの格好も気になる。主人公を追う刑事の短いネクタイ、新聞を上着のポケットにはみ出させるのは格好良い。これがフランス式なのか?
とりあえずそんな雑感をもった。

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*1:あほはあほなのだ。

*2:正確にいえば、ある支払いを忘れていて懐が温かいと勘違いしていた。

*3:一ヶ月前に住んでいた場所はそういうものがなかったので利用する機会がなかった。

*4:どうして自室だとトイレに頻繁に行きたくなるのだろう。

*5:その感じはこの後観た『気狂いピエロ』で更に強まるのだけど。