2014年7月13日

ぬるい風が吹いている。曇天の空に湿気を含んだ風、清々しさは無い。寝不足気味の身体に堪える。なんだか腹も痛い。シャワーを浴び着替え、買物に出掛ける。路地を出ると若い男女が腕を絡ませ楽しそうに前を歩いている。何と無く怯んでしまう。夕飯の食材と髭剃りの替刃、詰替用洗剤、詰替用シャンプーを買いに行こうという生活感溢れた俺に対して、彼らはそれがまるで無い。というより生活に彼らのような生活の一コマが存在しない事こそ問題なのだろうか。交差点で彼らと別れ、スーパーで食材を買い、ドラッグストアで精算しようとすると手持ちの金額ギリギリになり、思わず「ヤバい」と口走ってしまう。店員の訝しげな視線を感じつつ、財布を確認すると何とか事足りていた。仕方なくATMに寄り、お金を卸す。自宅の前で磯の香りに遭遇し、辺りを見回す。すると駐車場にサーフボードを載せた車が一台目に入る。

夕飯を食べ終え、汗が乾くのを待つ。腕に浮いた汗を窓から入り込む風が撫でる。畳の上に寝転び、スマートフォンを眺めるも、そこにはほぼ無意味なテキストが連なりを見せている。蟻の行列を一段、二段と連ねれば一見テキストとほぼ似たようなものが出来る。それを読み取ろうにも蟻には個体差が無いものだから、「ああああああああああ」と文字が続くようなものだ。これを蟻が十匹ありがとうと読み込むのは七歳位までの子どもであり、何処かで覚えて来て何度も繰り返す。しかしこんな言葉遊びはどうにも七歳の子どもが思いつくには少し難易度が高いように思える。何より親父臭い駄洒落である。大抵、両親か、皆で奪いあって読んだ謎掛けの絵本から覚えてきたものだろう。一は苺の食い放題、三は秋刀魚の食い放題、五はゴリラのケツ洗い。二と四を忘れたが、順位をつける際などそうやってからかいあったものだった。私は別に苺を好きでは無く秋刀魚が好きだった。ちなみにあの頃一番好きだったのはアジの開きである。また今思えばゴリラのケツ洗いとは興味深い。現在の日本でゴリラのケツを洗うには、大学で学芸員の資格を取る事が必須であろう。果たして大学まで進学し学芸員資格を取得出来る勤勉さを身につけた友人はいたのだろうか。残念ながら俺はこれに該当しない。蟻の行列に仕切りを設け透明な樹脂を流し込み固定させる。透明な樹脂は蟻を固定させるものの身体が浮かせ反転させてしまい、もはや蟻の行列というより、死骸の固定でしかない。固まろうとする樹脂に抗して動く六本の脚。大腿部に生えた毛のようにも見える。ふとももの毛を毟りつつ、外に耳を澄ますと蝉の鳴き声が聴こえる。七月中盤、まだ早過ぎる。最早、死骸の羅列になった蟻は意味と生を失い透明樹脂に固定されている。巣に水を流し込まれ水面上をもがく蟻とも違い、無意味さが際立つのである。窓の外では一軒家から現れた老婆と若い女性が玄関の前でチャッカマンを使い小さな箱に火をつけている。二人は箱の前で火を眺めている。火の匂いが部屋まで届く。若い女性は踵を足の指で掻いている。盂蘭盆会、迎え火というものだろうか。老婆が「茄子は」と言っている。雨戸を閉める為、外に出ると一軒家の前に箱が消えている。庭に捨てられた透明樹脂の塊に蟻の葬列を繋げるだろうか。