2014年7月3日

目の前でカードケースが落ちた。コンクリートを滑るケースが開陳されカードが露わになる。屈んで拾う女性の右手。関節が開き二の腕が締まる。後ろに続いた女性は半身引き歩を進める。

電車に満ちる甘い匂い。額を濡らす汗。冷気が肩に落ちる。視線を落とせばサンダルから飛び出した五本の爪にターコイズブルーのペディキュアが施されている。ネイティブアメリカンの加護の証、彼女の指は満員電車で踏みつけられる事無く、荒野を彷徨う悪霊からも守られている。

事務所でグループ内の社員に異動が通知され新規業務を請け負う事になったらしい。これでよっぽどの事が無い限り俺が当分異動する可能性は無くなったようだ。景気の良い話だと感心すると同時に先が思いやられる。

先日から引き続き集団的自衛権について調べているが判らない点、繊細な点が多い。ここで既に読み終えている河本英夫「〈わたし〉の哲学 オートポイエーシス入門」より最後の引用。「類似したことは、カフカの『城』に出てくる。主人公は、仕事を求めて城に近づこうとする。簡単にはいかず、いろいろと伝手をもとめてあがく。それでもうまくいかない。うまくいかないので、ますますあがく。城に接近しようといろいろ試みるが、気が付けば城の周りをぐるぐると廻っているだけである。この小説は、進行から見て、途中から終わることができないと感じられる。そしてその予感通り、終わることができないまま未完に終わる。
こうしたことはなにか緊急事態のように思えるし、どこか悲惨さや否応のなさ、やむをえなさを感じさせる。しかし人生には、いくぶんかこうした面があり、それは生きていることそのものに含まれるどうしようもなさの一面である。こうしたどうしようもなさを積極的に引き受けると覚悟を決め、それにふさわしい言葉で言い換えれば、生の「かけがえのなさ」ということになる。生命の基本的なところには、こうした否応のない反復が含まれており、たとえば毎日、毎日の暮らしでも、ほぼ同じように朝、薄いコーヒーを飲み、新聞を読み、そしておもむろにディスプレイを立ち上げてその日一日を思い描くのである。毎日の日常は、およそ反復であり、「暮らし」という字は、どこか「墓」という字に似ている。」