『奈義の龍安寺』に行ってきました。そして『龍安寺』にも行ってきました。

荒川修作+マドリン・ギンズの建築作品『遍在の場・奈義の龍安寺・建築する身体』は岡山県の奈義町現代美術館という場所にある。
長期休暇を利用、新幹線から岡山駅岡山駅からJR津山線を利用、終点津山駅で下車、駅前のバスセンターから中鉄北部バス行方・馬桑線に乗車、奈義町現代美術館前下車にて到着となる。バスは近隣にあるイオン津山を利用する人がほとんど、最終的にバスに残ったのは女性客と私二名のみ、美術館前で女性と共に下車する事になった。女性の目的地も美術館だった。

 
【奈義町現代美術館、通称NAGI MOCA。奈義町立図書館も併設されている。磯崎新の設計。】

 
 
 
【「太陽の部屋」外観。『遍在の場・奈義の龍安寺・建築する身体』はこの円筒形の建物に展示されている。尚、「太陽の部屋」という名称は「作品の内容を示したものではなく、むしろ建築的な形態より連想され「見立て」られたものである。」との事。 】

美術館受付にてチケットを購入、建物内の説明を受ける。「太陽の部屋」の入口は隠れており、螺旋階段を登る必要があるという。
展示室「大地」を抜けるとギャラリーがある。ここに『遍在の場・奈義の龍安寺・建築する身体』のデッサンが設けられている。

 
 
 
 
 
 
  
 
【『遍在の場・奈義の龍安寺・建築する身体』デッサンや略歴の紹介がされている。当初のデッサンでは建物(法隆寺)そのものが展示される仕組みだったとの事。】

ギャラリーから「太陽の部屋」へ。

  

 
 
 
【部屋中に貼り付けられた奈義町民のスナップショット。部屋の片隅では「奈義の龍安寺」をリアルタイムでモニターし続ける小型テレビが設置されている。】

黒く染められた螺旋階段を昇り、『遍在の場・奈義の龍安寺・建築する身体』に向かう。

「太陽の部屋」内、『遍在の場・奈義の龍安寺・建築する身体』内へ。

 
  

 
  
 
【奈義の龍安寺石庭。】

 
 
 
 
【反転した部屋、鉄棒、シーソー、ベンチ。】

『遍在の場・奈義の龍安寺・建築する身体』部屋の中で傾いた床を歩けば足元も覚束ない。
部屋を訪れた他の人々も体勢を崩しながら周囲を見渡していた。
一方、子どもたちは案の定、室内を大きな声を挙げながら走り回る。
そしてベンチに座る事無く、床に座り、床の曲線に沿って滑って行く。
天井を見上げれば、ほぼ対象に設置された、ベンチ・鉄棒・シーソーに驚きの声を上げ、家族に知らせる。そして家族は子どもたちにこう問い掛ける。
「もしかしたら〜ちゃんは天井のあそこに座っているかもしれないよ?」
子どもは家族の問い掛けを意に介さず、
「シーソー乗ってもいい?」
と言いながら、既にシーソーに跨っている。
傾いたベンチに座りながら、シーソーに乗りたいけど相手がいない…誰かと来れば良かったかと考えているところで、若い男女が室内を訪れ、子どものようにじゃれ合っている。

 
 
【ふと気がつくと、円筒形の中で私は浮いていた…】

 
タルコフスキーの映画じゃあるまいし、鉄棒を使って視線を変えただけでした。結局私も楽しんでいた。この時に腹を打ったらしく疼痛が翌日まで続いた。若いフリをするのは辛い。】

と、『遍在の場・奈義の龍安寺・建築する身体』を楽しんだ。一方、少し気持ち悪い。少し興奮している事や、鉄棒で前回りをしたのが影響したのかもしれない。これでシーソーを興じていたら、更に体調が悪化していたのかもしれない。そう、おそらく鉄棒とシーソーは通常の感覚に変更を加える為にあるのだ。

と、色々思う事がある一方、実は私は京都にある龍安寺石庭に行った事が無い。
そこで京都の「龍安寺」にも足を延ばした。

 
 
 
 
 
【亀が甲羅を乾かす池。まだ紅葉にほど遠い。】

 
 
 
 
 
龍安寺石庭。それは普遍性を表した自然―世界を「みる」場所になっている。】

京都の『龍安寺』石庭をあくまで「みる」場所になっている。他方、『奈義の龍安寺』は「みる」と共にその建物の構造上、入っていく/体験する場所になっている。
私が『龍安寺』と聞いて思い出すのは、高校の時、国語の教科書で読んだ加藤周一『日本の庭』の一部である*1
そこで述べられていたのは、龍安寺修学院離宮の比較である。
曖昧な記憶であるが、修学院離宮が自然そのものであり、人はその自然に入っていくしかない。一方、龍安寺は石庭によって自然の本質を表し、向かい合うものである云々という内容であった*2
『奈義の龍安寺』は「みる」場所であると共に自分自身を体験する場所―自然の本質と変化適応する自分に向き合う場所になっている。
荒川修作+マドリン・ギンズは龍安寺での体験をアップデートしている、と考えられる。
しかし私は太陽の部屋という円筒形内に龍安寺の石庭を展示した理由を「重力に影響を受けずに設置出来る」という現実的な問題からだと思う。

荒川修作+マドリン・ギンズがこの後、美術館の展示からテーマパーク住居と建築作品を発表したのは、人間の可能性を開花させる場を日常として選んだ為と思われる。
荒川修作と親交を持っていた河本英夫は「奈義の龍安寺」を評して「作者の意図を越えた」と言ったらしい*3。そういう作品です。

さて日本国内の荒川修作+マドリン・ギンズの建築作品に一度を足を運ぶ事が出来た訳だが、さて次はどこに行こう?

―同施設サイト―
「奈義町現代美術館」ホームページ http://www.town.nagi.okayama.jp/moca/

―先に赴いた荒川修作+マドリン・ギンズの建築作品の記事―
「三鷹天命反転住宅」 http://d.hatena.ne.jp/bullotus/20110213/p1
養老天命反転地  http://d.hatena.ne.jp/bullotus/20120317/p1


死ぬのは法律違反です―死に抗する建築 21世紀への源流

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建築する身体―人間を超えていくために

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*1:加藤周一の評論を今でも憶えているのは、当時の私には非常に興味深いもので、おそらく評論を面白いと思ったのは、この時が初めてだったのではないだろうか。

*2:参考ブログ:『語られる言葉の河へ 【読書余滴】竜安寺の石庭』:http://blog.goo.ne.jp/humon007/e/7e52d0eb72cf901e07ced4ea85c617ae

*3:河本英夫によれば、この評に対し荒川は憤ったという。しかし最後にはその評に納得したらしい。