モダン・アート,アメリカン 珠玉のフィリップス・コレクション


【夏に一人で赴いた神奈川県鎌倉市由比ヶ浜。砂浜にレジャーシートを敷き、曇天の空を見上げ、上半身を紫外線に晒し続けた。なぜかライフセーバーに「海が荒れているので気をつけて下さい」と声を掛けられ(それぞれ別人)、少し複雑な気持ちになった。そんなに負のオーラを醸しているのだろうか。海の家でやたら高い缶ビールを飲んで気持ち良くなっていると、綺麗な女性二人連れが座り談笑している目の前に、チャラいお兄さん二人が突然座った。このお兄さんたち、海に入る訳でもなく結構遠くから歩いてきてその辺に座っていたのを直前に見ていたのでナンパが目的なんだろうなと算段していた。案の定、というところで一体どんなナンパをするのだろうと見ていたのだけど、なんとその方法は女性の目の前に座り、ただそのまま座り続けて相手にされるのを待つというもの。おお…すごく詰まらない方法だなとその光景を見ていたのだが、女性たちは男たちを無視、男たちは砂をいじりながら諦めてどこかへ去って行ったのでした。俺はアルコールで気持ち良くなりながらぼんやり曇天の空と荒れ狂い始めた海を眺めていたのだが、正午になる前に雨が降り始め、自宅に帰る事を決めた。】

国立新美術館にて催されている『モダン・アート,アメリカン 珠玉のフィリップス・コレクション』に行って来た。


東京スカイツリーと月を背に甲州街道を西に走らせながら、提携先の社員と共に二日程長い時間を一緒に過ごした。移動の時間が長いので世間話をする。以前どのような会社で働いていたのか、何処に住んでいたのか…世間話をしていたのだが、ある一言に彼は過剰に反応した。それは「立派」という言葉だった。「立派って何ですか」と彼は尋ねてくる。私は面倒に思いながらも「立派っていうのは、世間話で使う立派です。この話だと大学を卒業した後にそれなりに名の知られた会社で働いているという意味です。もちろんそれが立派かどうかは人それぞれだし、普通とか立派とか、そんなものは疑って掛かるべきだと思います。私もそういう生き方だけが立派だとは思っていませんし古い価値観だと思います。ただ単純に世間一般的な意味合いでの立派ですよ。」と説明した。実際、世間話で言葉の定義を問うのは全く馬鹿らしい。】

この展示にてマーク=ロスコの作品が出品されるのを知った。
公式サイトによれば、ロスコは『1968年に大病を患い、大きいサイズの作品を制作することを医者から禁じられました』とあり、小品を作成していたとの事だった。


【高速道路を走らせながらラジオから恋愛談義が聞こえてくる。例えば男女の一方が浮気をしたとする。この場合、浮気をした方が悪いという事になる。しかし浮気をする原因がもう一方にあったのでは無いか。そういう事を考えるとキリが無くなる。かならずどこかで原因の枠を決めなければならない。こういうのをなんちゃ連鎖というとかいわないとか。】

前回、『ロスコの部屋』にて、その作品のスケールに圧倒されており、小品であるロスコの作品に何を感じる事が出来るのか、どういったものになっているのか、そういった興味と、手に届く範囲にあればトコトン見るべきだと思いで展示に行った。


【海に近い川で魚が跳躍する時がある。それを初めて見たのは、父に連れられていった利根川だったと思う。水面を跳躍する魚に気が付き、父にその魚の名前を尋ねるとボラとの事だった。そして出世魚だとも。私は気の抜けたボラという名称を聞き、水面は跳ねるボラを見ながらなんとなく馬鹿だなぁと思った。あの跳躍を見る度に馬鹿だなぁという声が聞こえてくる。】

展示は10章からなり、入口の第1章から順に展示物を鑑賞出来るようになっている。
各章毎の題名は、

となっている。


【夏の空から秋の空へ。天高く馬肥ゆる秋、スポーツの秋、支流沿いを走りながら公園を利用する老人、親子連れ、若い男女を視界に捉えながら一人ランニングに興じていると孤独を感じる事も多い。高橋尚子は走りながら風景を見ていると以前ニュースで発言していた。しかし一方で彼女はその快活そうな性格に似合わない過去を思い出す事もあったのだろう。以前同じくマラソン選手である野口みずきアテネオリンピックで金メダルを受賞した際、沢木耕太郎野口みずきにインタビューし「マラソン中に高橋尚子を思い出したか」と問うていたと思う(朝日新聞紙上でコラムと記憶している)。それに対し野口みずきは「それは、ちょっと」と答えたという。沢木耕太郎はこのコラムでその言葉の意味に考察を加えているのだが、走るという行為に自身との対話がある限り、美しいだけでない心の反復もあり得る。】

ロスコの作品は、第10章に於いて展示されている。小品である為、通路のようなところに展示されていた。その小品には「ロスコの部屋」に展示された作品の力強さ、圧倒されるような迫力は無い。
しかし「ロスコの部屋」に展示された作品にはない、暖色で配されたその小品には小品周囲を、包容し意識に滲んでいくような日常的な力があるのではないか、と感じた。そのように考えるとロスコの作品の宗教的な意味合いやイコン的な力は例え小品であったしても宿っていると考える事が出来る。


みなとみらい21といえば、ゴジラモスラ、バトルモスラことバトラが死闘を繰り広げ、観覧車を背中に背負ってモスラが吹っ飛んだ「ゴジラvsモスラ [DVD]」である。フィクションで歴史、地理を学ぶのは私の上等手段であり、札幌といえばキングキドラ、福岡といえばスペースゴジラである。しかし、3月11日の震災で事故を起こした東京電力が要する原発事故で頻繁に目にした単語であるメルトダウンは「ゴジラvsデストロイア [DVD]」で知った言葉である。この作品ではゴジラのメルトダウンが危惧され、ゴジラがメルトダウンをすれば、ゴジラが熱球となり地中に穴を開けながら落ちて行く、としてメルトダウンのシミュレーション映像が映される。幼稚園児の時、過去のゴジラシリーズにある程度を目を透していた。第1作目の「ゴジラ [DVD]」は白黒であり、平成ゴジラが吐く熱線も、第一作ではただの煙でしかなく、はっきり言って余り面白さを見い出せなかった。ただしゴジラが新兵器オキシジェン・デストロイヤーによって白骨化、開発者である博士がゴジラと共に死んでいくシーンを見て、カタルシスとヒロイズムを感じていたと思う。しかし、その後、ゴジラが吐く煙が放射能であり、ゴジラ蹂躙した東京でガイガーカウンターで検査を受ける子供たちがいる事、「ゴジラ」自体が第五福竜丸事件をきっかけに作られている事を知った(これは小学校高学年位の事だと思う)。メルトダウンしている/していないというTwitterでの狂騒を見ながら私は「ゴジラ」を思ったのである。原発ゴジラの関係性について『3・11の未来――日本・SF・創造力』や加藤典洋氏の著作が参考になるだろう。】

展示は、アメリカの牧歌的な風景、征服されていく自然、近代化、都市、人々、そしてその精神へと描く対象の変遷が分かりやすくまとめられているようだった。
同時にアメリカの牧歌的な征服されていく自然が、人々に脅威をもたらしている事が判るウィンズロウ=ホーマー「救助に向かう」等が印象的であり、征服出来ない自然に魅せられ、荒々しく描いたポール=ドガティ「嵐の声」、ロックウェル=ケント「ロード・ローラー」「若い男の埋葬」等が、大学時代に観たロマン主義の作風と同様で気になった。「ロード・ローラー」はジョジョの奇妙な冒険好きな人は必見です(嘘)。


みなとみらい21の埠頭では男女がベンチを占領しているという。みなとみらい21で仕事を終え。車から外を眺めていたのだが、原付バイクを二人で走らせる若い男女を見掛けた。私がみなとみらい21に彼女と共に来たとしても内心「ゴジラモスラ」を思い出しているだろう。恋愛している人々には思い出の地があるのだろうが、恋多き人になるとそういう場所が多くなって大変な気がする。それとも同じ場所でも相手が上書更新されていくものなのだろうか。】

都市を描いた作品では、モノトーンで配色を少なめに都市の静謐を描いているラルストン=クロフォード「船と穀物倉庫」、太陽光が雲の割れ目より都市にのみ注がれるエドワード=ブルース「パワー」が目を引いた。これらの作品を見てカッサンドルのデザインを思い出した。


【市ヶ谷駅と言え駅前の釣堀と防衛省、なのだろうか。少なくとも私はそうである。文学的な人なら具体的に三島由紀夫と名前が挙がるのだろう。GoogleMapで防衛省の中にサブウェイを検索する事が出来るのだが、話によればサブウェイは世界一最大の飲食店だそうである。そりゃ防衛省の中にもあるのだから当然と言えば当然かもしれない。】

国吉康雄メイン州の家族」、ベビーノ=マングラヴィテ「政治亡命者」を見ると、アメリカには様々な人々が住んでいる事が認識出来る。芸術家たちの亡命先といえば大抵アメリカだ。
その他にはマーデン=ハートレー「野ばら」が強く印象に残っている。
絵画以外ではアレクサンダー=コールダー「赤い多角形」がある。天井に吊るされ、ベタではあるが空を泳ぐ金魚を空想した。

『モダン・アート,アメリカン 珠玉のフィリップス・コレクション』公式サイト
http://american2011.jp/index.html
展示会は12月12日までのようである。