私の知らない私『ブラック・スワン』

ダーレン=アロノフスキー監督作品『ブラック・スワン』を観た。

本作は同監督の『レスラー』の姉妹編として扱っていると監督が公言しているらしい。
確かに、本作でカメラが捉えるバレリーナの全体重を支える足首と軋む床やトゥシューズで矯正された足を見ていると、レスラーもバレリーナも自身の体を意図的に矯正し変形させる姿は懸命さとグロテスクさが両立している事に気が付かないではいられません。
本作は、バレエ団の次公演「白鳥の湖」上演に際し、新たな主演者を決める候補に挙がったナタリー=ポートマン演じるバレリーナが精神的に追い詰められていく姿が描き出されています。
バレリーナは、監督、自由奔放なライバルバレリーナ、彼女を女手ひとつで育てたと思われる元バレリーナの母親、元主演バレリーナの女性に精神的に追い詰めれられていきます。
そして彼女は最後の最後に自分を追い込んでいた者の正体に気が付きます。
その正体に気が付いた時のバレリーナの顔、この顔に私は非常にカタルシスを覚えました。
ああ、こんなおっかない演出を我慢して見ていて良かった、と。

思うにある程度の緊張状態におかれると自分が思っても見なかった行動を取る事はよくある話で、自分ってこんなに非常識な行動を取るんだな、とか、恐ろしく感情的になった姿を人に見せてしまう事が多々あったります。そういうのを顧みて、ああ、私ってこんな事でこんな風になっちゃうのか、とか私の限界ってこの辺なのかしらって気が付いたり、自分の価値観とかが明白になったりします。
また、そんな自分を反省しなくちゃと思ったりする訳ですが、そういう行動を取れてしまったという経験は思いの外拭いがたいもので癖になったりします。それはそのはずで、そういう段階で発現した自分ってのは自分の根源的な特性みたいなもんだと思うんですね。

そういう事を考えると、この追い詰められていくバレリーナっていうのは今までの環境でそういう経験が無く、突如それが吹き出した感もあったりするのかなと考えてしまいます。実際、このバレリーナと母親の関係は少し特殊なのかなという描写も多々あります。
例えば、バレリーナは昔から自傷癖があるらしく、緊張状態になると寝ている間に爪で肩甲骨の辺りを引っ掻いてしまうようなのですが、それを発見した母親がまだその癖直っていなかったのねと、バレリーナの傷を隠し、爪を鋏で切り落とすシーンがあります。
そのシーンから、バレリーナが私の知らない私に気が付き、そんな自分を飼い馴らすチャンスが過去にあったのかもしれないと考えざるおえません。
しかし、それを忌むべきものとして回避させられた事によって、自分のある側面に目をつぶって隠し、ひいては才能を開花出来るチャンスを逃してしまっていたのかもしれません。
なんかとても俗な感想になってしまいましたが、バレリーナの激しい動きを支える細い足首と矯正された足、表情が非常に印象に残っています。
しかし、いつも自分を飼い馴らす事が出来ればなと思うのですが、これがなかなか手に余る代物だった時、人はどうすればいいんしょうか?
そしてそれが更に愛すべき人や期待に沿う為だったら?
自制する?
欲望のままに?
…判りません。