博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか

『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』を家で観た。

私はこの映画を観るまで勝手な印象を持っていた。それは題名に博士とあるから、ストレンジラブ博士が主人公としてこの映画を引っ張っていくと思っていたということ。そしてその中でブラックユーモアをぶちまけていくのだろうということ。実際観てみると博士の登場シーン自体は少ないし、ブラックユーモアは周りの人々が起こしていく。

映画は原爆を落とす為ソ連に向かう戦闘機と、その命令をだしたある基地の気がふれた将軍、大統領を中心とする会議室を映していく。コメディだと聞いていたが、セットなどはコメディの為にデフォルメされたりしているわけではなく、割と現実的な映画だという印象を持った。

まず映画の始まりでアメリカ空軍がこの映画のようなことは起こることがないというテロップを流す。本当にアメリカ空軍がこのテロップを入れさせたのか、演出なのかわからないが、どちらにしても馬鹿らしく、かといって大笑い出来ないので困ってしまった。

博士の周りがユーモアを起こしていくと上記に書いたが、気がふれたリッパー将軍と英国紳士のマンドレイク大佐の掛け合いが特に面白い。リッパー将軍は反共産主義者であり、自らが思いついた陰謀論を信じている。水道水に含まれているフッ素添加物はアメリカ人のエッセンス(体液)を侵すものだといったり、それに気がついたのは女性とのSEXで体液を吸い取られた時だといったり。それに対してマンドレイク大佐はこいつイっちまってると思いながらも、何とか戦闘機を引き返させる暗号を聞き出そうとする。会議室でも反共産主義者の将軍と緊急事態で呼び出されたソ連大使が小競り合いをする。アメリカ大統領がソ連に電話すれば首脳者も酔っ払ってるときている。これが冷戦の真実なのか(笑)。

しかしおそらくあの時代は反共産主義がアメリカのスタンダードであっただろうから誇張でもないのかもしれない。そうやって考えると政治情勢とかで人の考えが蝕まれるのは本当に下らないと思う。しかし思想とか哲学とかいったものは真理を求めるといいながら、必ずその時代情勢に対する危機感、反抗によって生まれているのは間違いない。もちろんそこに普遍的な意味を見出すことは出来るのだろうけど。まさにこの記事がそんな構造になっているし。

結局核抑止力なんて綱渡りの戦略なわけで、それが現代でも通じているのがウンザリする。いや、通じるということは機能するということ、信じられているということなんだろうけど。