いのちの戦場 -アルジェリア1959-

『いのちの戦場 -アルジェリア1959-』を観た。
なぜ私がこの映画を観たのか。それはこの映画がアルジェリアを描いているからである。そしてなぜアルジェリアに興味を持っているのかといえば、カミュの生まれた土地であり、『異邦人』の舞台であるからだ。
私はカミュの『異邦人』を読んだ時、描かれる舞台はアルジェリアではなく、フランスの地中海沿岸地域だと思っていた。そしてカミュの文章を通じてその空気感に酔いしれたりもした。しかしカミュについてある程度まとまった勉強をする機会があった時、自分が誤解をしていることを知った。アルジェリアは地中海を挟んでフランスの真向かい、アフリカ大陸に位置していた。
そこから『異邦人』においてアラブ人が登場する理由を知った。そして『異邦人』という題名を、違った意味で考えるようになった。私は『異邦人』の主人公ムルソーが他の人と異なるという意味で題名を『異邦人』だと思っていた。しかしアルジェリアに、フランスの植民地ではあるが、生活しているフランス人がこそが「異邦人」なのではないか。またはフランス人から見て、支配するアルジェリアで生活するアラブ人こそ「異邦人」なのではないか、といった具合に。
カミュはアルジェリアでフランス人とアラブ人は共生できると考えていたらしい。その共生をカミュが、あくまでもフランスの支配下で実現するのか、フランスからの独立という形で共生すると考えていたのかは勉強不足で知らない。しかし結局アルジェリアはフランスから独立することになる。

この映画はアルジェリア戦争を描いたものである。私は以前にDVDで『アルジェの戦い』をざっくりと観たことがある。そこではフランス軍とFLN(アルジェリア民族解放戦線)がアルジェで市街戦を繰り広げていた。しかしこの映画で描かれる戦いは市街戦ではなく山岳地帯である。砂埃が舞う荒涼とした大地は、私がフランスと間違え、酔いしれたアルジェリアではない。
この映画の公式サイトにはフランス版「プラトーン」と書かれている。確かにこの映画で描かれる戦場の悲惨さには、既視感を持つ。捕虜への拷問、民間人を巻き添えにしていく両勢力の攻撃、禁止兵器の使用、戦場で身も心も壊していく兵士たち…。しかしその既視感は、逆にいえばそれがおそらく戦場で発生せざるを得ない事ゆえに持つものなのだろう。しかもそれが今までフランス人の手で描かれることのなかった事ならば、使い古された材料でも、なおさら使わざるえないものになる*1
そんな映画であったから、正直この映画に驚きはない。むしろ次はこうなる、次はもっとひどくなると予測すれば大体その通りとなる。
この映画は主にフランス軍の視点から戦争を描いていく。その視点ではFLNは非情なゲリラ軍として描かれる。そんなゲリラ軍の兵士が捕虜となり、フランス軍の兵士たちと会話するシーンがある。アラブ人のゲリラはフランス軍に参加するアラブ人に煙草をもらい、その両端に火を点けて、この煙草はお前だ、という。ここに表れるシーンはこのフランスの植民地問題を簡潔に示しているのだろう。そしてこのシーンを観ながら、今行われている対テロ戦争というものの一端を観た気がした。アメリカなどが派兵した地域は、今兵士を本国へ戻しているだろう。するとその国でテロと戦うのは訓練されたその国の兵士となる。そしてテロを行うのもその国のゲリラだろう。果たしてそこで行われる戦闘は戦争なのだろうか。新たな内戦を生み出していくだけではないのか*2
そこに気がつかせてくれたという点で、この映画を観た意味があった。おそらくこの事に気がつけたのは今だからだろう。そしてそれが製作者側の意図するところであったなら、この映画は単なるフランス人の為の映画ではないということになる。

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*1:というより戦争映画でそこを描かず何を描くのか。

*2:多国籍軍がいなくなれば戦闘がなくなるというならもちろんそれがいいに決まっているが、果たして…。