BOY A

『BOY A』を観た。
沢木耕太郎の『銀の街から』*1で知る。その前に紹介された『初恋の思い出』を観ることは出来なかった。しかし上記にリンクした沢木耕太郎の文章を読むと、ここに『BOY A』について書くことがむなしく感じる。そこにはこの『BOY A』という映画の全てを包括する言葉があるように思うからだ。この『BOY A』という映画の持つ重さに語る言葉がなかった私は今回、特にそう思うのである。
この物語はある罪を犯したであろう青年とその保護監察官の物語を軸に進む。物語は青年の罪をなかなか明かそうしない。しかも物語は青年の罪がいかに重いものであるかを、題名からわかるように、示唆し続ける。私はその青年の罪を知りたくないと思う。知りたくないと願う。一方でなぜこの青年が重い罪を背負うことになったのかという疑問を持つことになる。劇中の青年はそんな罪を犯した人間に見えないからだ。青年はそれほど純粋に見えるのだ。そんな青年はその純粋さゆえに新しい生活に対する自らの詐称に思い悩むようになる。青年は新しい生活のために罪を犯した人物の名を捨て新しい名前、ジャックとなのっていたから。ジャック、これはありふれた名前なのかもしれない。しかしありふれたジャックという名前が青年にとってどれだけ重いものであったのだろうか。
 
この映画を観ながら、罪を犯した人間が生きるということについて考えざるを得ない。そしてその思考の入り口に待っているのは「BOY A」―「少年A」である。少年Aが成人し、どこかで生きているということ。そして罪を背負っていること。そんなちょっと考えればわかることから逃げていた。しかしそれ以上考えが及ばない。例えば幸せにとか、苦悩せよとか、少年Aに望めるものなのか。一体、罪を犯した人間に当事者でない人間は何を望んでいるのだろう、望んでいたのだろう。
私は本当に語るべき言葉が見つからない。

この物語を、人は過去から逃れることは出来ない、というように観ることが出来るかもしれない。しかし私はそのようにこの物語を観なかった。私は少ない経験から、過去から逃げるということが出来ないという知っているから。過去はその人のなかにしかない。いくら逃げてもそこに自分がいる限り、過去もそこにあるのだ。ただしこの物語において問題はその過去の重さにある。青年はその重い過去から逃れようとしていたのだろうか。私は逃れようとしているとは考えない。むしろ青年はその重い過去、罪を自らの中心に置いていた。そしてその罪から新しい生活を引き寄せていたように思うのだ。そう考えた時、青年に逃げるという選択は元々なかったということになる。青年は逃げない、だから逃れようとさえしていない。
 
罪を犯す人間のパターンに、男二人というパターンをよく見かけるような気がする*2。あくまで気がするだけなのだが。二人組みの男における、一人の行為のためらいをもう一人が実行してしまう行動様式。これが気になる。

(追記20081210)上記の文章を読み直すと、何だかわからないことを書いているの補足する。
人は過去から逃れることはできないという実感を私が持っていることと『BOY A』は基本的に関係ない。しかし私はこの物語が過去から逃れられない、というテーマはすでに織り込み済みであろうと思ったのだ。その思いを後押ししたのだが私の持っていた上記の実感だった。そのようにしてこの物語を観て、私は上記のことを考えた。

*1:リンクには期限があるようだ。

*2:例:カポーティの『冷血』、最近観たドラマ『ジャッジ』とか