サブカル・ニッポンの新自由主義―既得権益批判が若者を追い込む

鈴木謙介著『サブカル・ニッポンの新自由主義―既得権益批判が若者を追い込む』を読んだ。
TBSラジオの『文化系トークラジオLife』を聴くようになり、そのメインパーソナリティである社会学者鈴木謙介通称charlieの考えに触れがら、彼の一つまとまった考えを読んでみようと手に取った。ラジオにおいては「難しい話をするけど」と断りを入れてから社会学者として話をする彼のまとまった考えを。正直ラジオのくだらない話を聞いているほうが気が楽なのだが、問題提起メディアとしてだけ聴くだけではつまらないのでは、という動機もある。
この本自体「新自由主義」のねじれを、様々な文献や外国の状況などをヒントに解き明かしいく。しかし私には情報量盛り沢山で正直その構造について理解するだけで精一杯な状況であった。なかでも発展史観に対するジョアンナ=ヌーマンなる人物の見解が面白い。新技術がエリートから大衆に移動し、旧体制から新体制へと民主主義が前進しているはずなのに必ずしもそうなっていないこと。旧秩序から不安定な新秩序への解放、そして新体制は否定されるべき権威をまとって旧秩序へと安定し、また不安定な新秩序へ…。つまりそこに起きていることが発展ではなく時計の巻き戻しだというのだ。これを鈴木謙介は「既得権を批判した人が、次の世代に既得権として非難される」現象の説明としている。
『3年で辞めた若者はどこへ行ったのか』と『パラダイス鎖国』に書かれている既得権批判、クリエイティブとして生きるということ。つまり市場において競争するということに、私は耐えられるのか。その不安に鈴木謙介はジモトという言葉を持ち出す。それは自分の「帰属先」を意味する。具体的な例として宮藤官九郎の作品を挙げる。これは宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』における「ゆるやかな(終わりのある)つながり」と非常に近い意味を持つというのが興味深かった。鈴木謙介はこれを(現実)に対して「ケジメをつけるまでのモラトリアムを許容する場」としている。もちろんこの場でさえ新自由主義的な力にさらされている。しかし外の世界に侵食されない価値観の力が共同性の承認によって維持されれば、そこが足場として確保されるのである。ただし鈴木はあくまでこれは理想でしかなく実現途中にあるという認識だと示す。

最後に上記で紹介したラジオ番組について。あるとき、サブパーソナリティが鈴木謙介にある質問をした。「charlieの成功って教授になることなの?」と。それに対して鈴木謙介は「教授なんかになるために学者なんてやっていない」といった。ほとんどの学者が自分の学問的関心*1で研究を行っているだろうと思う。とはいえこの発言を間髪いれずにいえる学者なら、期待はしていいかなと思ったりした。

*1:それだけでなく色々実存的な問題とかもあるのだろうと思うけど…