複製技術時代の芸術作品

べンヤミン著『複製技術時代の芸術作品』を読みなおす。

まず訂正しておきたいのは以前にこの作品が「生の一回性」について述べられているといった。しかしここで述べられているのは「芸術の一回性」であった。もちろんこの「芸術の一回性」にも宗教との関係性、つまり芸術作品の「礼拝価値」という意味においては限りなく「生の一回性」に近いと思われる。しかし「礼拝価値」に対決する極にある芸術作品の「展示価値」に「生の一回性」が近づけるのか、その点についてはまだ私は考えていない。

『複製技術時代の芸術作品』において「アウラの凋落」が語られる。アウラとはベンヤミンによれば「空間と時間から織りなされた不可思議な織物である。すなわち、どれほど近くにであれ、ある遠さが一回的に現れているものである」とある*1。そして芸術作品の唯一無二は伝統連関に埋め込まれているということと同じであり、つまりそれは儀式に基づくことで生まれていた。これが前述した「礼拝価値」である。そして複製技術が発達することによって芸術作品が儀式から開放され、展示可能性が広がり「展示価値」に重みが置かれるようになる。
と簡単にまとめてみた。

そして個人的には、芸術愛好家と大衆の芸術の関与の仕方についてが気になった。以下引用*2

―芸術愛好家は精神を集中して芸術作品に近づくのに対し、大衆は芸術作品に気散じをもとめている、芸術愛好家にとって芸術作品は一心不乱な帰依の対象であり、大衆にとって娯楽の種である、という声である。この点はもっと子細に見てみる必要がある。気散じと精神集中との対立について、次のような言い方ができる。芸術作品の前で精神を集中する人は、作品の中へ自分を沈潜させる―完成した自分の作品をみて、そのなかへ入っていったという、伝説上の中国の画家のように。それに対して気の散った大衆の方は、芸術作品を自分たちのなかに沈潜させる。大衆は海の波のように、作品のまわりに打ち寄せ、潮となって作品を包んでしまう。このことのもっとも明白な例は建築物である。

これを読むと正に図星です、と苦笑いなわけだが。気散じの状態が常態化しているのが現代人なのかもね。しかもそれがウェブ空間においては当たり前になっている*3。そうやって考えると例えば 文學界に掲載された十一人座談会の若い書き手がいう「芸術をやっている」感じは頼もしいと思える。全く的外れになる危険も高いけど…。鑑賞物と小説は話が違うのだろうけどね。

ついでに見当はずれの考えとしては、この文章を読むと、ショーペンハウアーにとって「ただ生きようとする盲目的な意志」をほんのしばしの間慰め労わるものだった芸術が現代において批評されるもの、政治的なものになってしまっている。ということはショーペンハウアー的な「意志の否定」は現代人には限りなく不可能になってしまったのでなかろうか*4。とはいえショーペンハウアーがいう「意志の否定」は最初から大衆を相手にしていないのだろうけど。

*1:『ベンヤミン・コレクション1』p592より引用。

*2:『ベンヤミン・コレクション1』p624より引用。

*3:これは個人的なレベルで感じているのだけど…。

*4:修行としての餓死が現代人できるとは思えない。まぁ普通できないけど。