穂村弘著『短歌の友人』を読み終えた。この本は加藤典洋の文芸時評において取り上げられていたものだ。穂村弘はこの本において短歌とは「生の一回性」の感覚の表現であるという。加藤はこれを引用していた。その表現は現在において、想いと「うた」にレベル差がないこと、それを「棒立ち化」しているという。これを穂村弘は「九十年代の後半から時代や社会状況の変化に合わせるように世界観の素朴化や自己意識のフラット化が起こり、それに基づく修辞レベルでの武装解除*1」といっている。
さて、この本を読みながら私は一つの誤解をしていた。それは「棒立ち化」についてである。私はこの「棒立ち化」を町田康の作品『パンク侍、斬られて候』に当てはめて、登場人物が饒舌に語る理由を理解しようとした。しかしそれは全く違っていた。この「棒立ち化」が起こる要因に穂村弘は上記の通り「世界観の素朴化や自己意識のフラット化」を指摘している。また加藤典洋も文学のフラット化について指摘している。では『パンク侍、斬られて候』の登場人物たちはどのような時代状況を念頭に描かれているのだろうか。少なくとも「世界観の素朴化や自己意識のフラット化」は起きていないと思われる。むしろ町田康の作品は、中島敦の『山月記』*2に描かれるような近代的自我の肥大化を、現代において饒舌にギリギリまで描いているように思える*3。町田康が描いているのはフラットな世界で「棒立ち化」している「私」*4ではなく、近代から現代へ自己肥大化した「私」なのではないだろうか。
さて話を『短歌の友人』に戻す。ではなぜ「棒立ち化」した短歌が現れたのか。穂村弘によれば、まず戦後の前衛短歌はそのレトリックによって戦後的な共同幻想を撃つための「武器」であったが、経済の繁栄と共に敵は姿を消し、「道具」へ、そして「玩具」となった。そして共同幻想という敵が消えた現在、あなたとわたしの関係性の価値が高騰するのだという。そして現在の歌人たちは、その「玩具」さえ捨て短歌を読むのである。その短歌は現実と想いを切実に詠う、「棒立ち化」したものなのだろう。
普段、短歌を読むということはないが、この本に紹介されている現代短歌はどれもすばらしいものばかりだったと思う。面白かった。そして切なかった。
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